格闘競技と武術

目次

RIZIN お疲れさまでした

先日のRIZINは当日に別の予定が入った関係で、少し遅れて拝見しました。先日お話しした熊澤先生の試合を含め、3試合のみの観戦です。

試合というのは、選手の人生にとっての「一瞬」の出来事で、外からそれを見ただけで、その人のやっていたことをすべて理解できるわけではありません。それに、プロの興行なので、最終的には観客と興行主を満足させる試合であることは重要なファクターだという側面もあり、外野の人間が包括的に簡単に述べられることではないと思います。ですので、今回の大会や試合内容について私が詳しく述べることは止めておきます。

ただ、自分をその立場に置いて考えてみると、あの場に立つことに大変な努力と本当に強い勇気が必要であることが間違いないと思います。この大会でもかなり高齢なファイターが参加されていましたが、年齢が高いと試合で受けるダメージのリスクもより大きくなりますから、そういう方は尚更。

熊澤先生も、他の選手の皆さまも、お疲れさまでした。試合後のケアを十分に、ゆっくり休養を…。

格闘競技と武術

今回の事前の情報で、格闘競技と武術について改めて考えられた方もおいでだと思います。熊澤先生が武術家として参加する、と表明されたこともありますが、開催地の沖縄は日本の空手の発祥の地ということもありましたので。

以下、私の個人的な考えについて述べます。

今も練習している詠春拳について述べると、確かにそのフォームは外から見て合理的に見えます。でも、その動きをするための基本的な力の運用を身につけていないとその形を活かすことができません。例えば、相手のボディを突くにしても、「詠春拳のフォームが前提とする力」が適用されていなければ「ズドン」とは行かず「ぺちん」と当たるだけ。こういう修行の浅い状態では、大きく飛び込んだり胴体を回転させたり、肩を入れたりして打たないと、効果的な打撃力を得られません。結局、他の格闘技の経験があれば、その打撃法を使って戦うしかなくなります。

この詠春拳固有の力を得て、普通に使えるようになるにはやはり相当な時間がかかることでしょう。そういう私も、当時の先生の技能を思い浮かべて比較すると、今でもその半分も力を出せていないのではないかな。先生に細かい技術を習い「少しできるようになった」と感じた翌日に「出来なくなったりする」ため、また修正をしてもらって…ということを繰り返して定着させていく必要がありました。習い始めて半年で、初めて寸勁らしいものを打てるようになり、「できるようになった」と思ったら翌日は全く出来なくなっている、ということも体験しました。その後1年ほど、できるようになったり、全く出来なくなったりを繰り返したことを覚えています。

このように考えると、試合のために短期間この武術を習って集中的に練習しても、あまり役に立たない可能性が高いでしょう。武術の種類にもよるでしょうが、少なくとも詠春拳の場合は。

少し時間をかけてある程度詠春拳の基本的な技能が得られたとしても、ルールが厳密に決まり高度に鍛えられた選手同士が「ヨーイドン」で戦う試合でどの程度有効かというと、難しい側面もありそうです。グローブをつけるだけでも全く感覚が変わってきますし、目つき金的など、詠春拳で使える技は極めて限られるため、やはりある程度はフォームを改変したり、使用可能な技術に限定するための不要な動きをそぎ落とすことも必要になります。結局は試合に適応できることが第一であるため、わざわざ制限が多くて目的の全く違う武術体系を格闘競技に持ち込むのには無駄やリスクが伴うという面も考慮が必要になってくるわけです。私自身は詠春拳を学んだのちは、他の武道や格闘技とのスパーリングはあっても大会や試合に出たことはないので、その体験レベルの想像ですが。

もちろん、武術の技の中にもかなりの確度で試合に役立ちそうな技術は存在すると思うので、それらを昨今の格闘家の方々が自分の技として競技に取り込もうという試みについては、期待はしています。

基本的に武術の場合は、危険を避けることが第一であり、仮に理不尽な攻撃を受け、反射的に反撃したとしても、相手を反撃不能な状態にできたら素早く逃げることが重要だと思っています。以前、クラヴマガの指導員の方々を取材したとき、必要以上の加撃を行ってしまうと過剰防衛の罪に問われてしまう危険性について教えていただいたことがあり、そういう面でも注意が必要ですね。

武術においては制敵、殺敵という本来の厳しさとその責任について常に意識を持つ必要はあるとは思っています。でも、それを好んで徹底的に相手を潰すというような姿勢は、法治国家の現代日本には合わない気がして。こういう意識では、今でも詠春拳を教えてくださった先生の「精神」を私も引き継いでいるかなあ、と感じます。

詠春拳は人気があるのでしょうか

ちょっとここにきてビックリしていることがあります。私の練習日記、気づき日記として始めたこのブログのひとつの記事について、ここ数日アクセスが集中しているのです。

詠春拳は弱い?

がその記事。直接このページをご覧になっている方が多いようです。なぜ急増したのか定かではありませんが、詠春拳というキーワードもそうですけど、それに関する強弱について興味を持っておいでの方々が多いことの表れかと感じています。

私がこの武術を習っていた1980年代後半は、ほとんどの人が詠春拳を知らず、スクールには多くて4-5人しかいませんでしたので、隔世の感がありますね。スクールの数も限られていたことを考えれば、当時の日本の練習生は数えるほどだったのではないでしょうか? 当時から、「ブルース・リーが初めて習った本格的な武術」ということはファンの間では知られていましたけれども、ブルース・リー自身の武術が詠春拳とはかけ離れた動きをしていましたし、彼を単なる映画俳優としてみている人も多かったから、詠春拳までたどり着く人は少なかったのかな?

上のリンク先の記事やこの記事にも書いたとおり、どんな武術、格闘技でもシチュエーションごとに万能とは言えないですし、一長一短があります。その人に合う、合わないも含めて。結局は武術の種類ではなく、それをたしなむ「人」が大事なのだと思います。

詠春拳も価値がある武術のひとつだと思いますし、いろいろな魅力があるからこそ、私も毎日基礎練習を続けられているのだと思います(小念頭などは、若い頃は退屈にしか感じませんでしたけど…)。

細かくは書きませんが、詠春拳の練習で得たものが何カ所かの緊迫した画面で役立ったこともありました。相手を肉体的に傷つけることは一切なく、急速に戦意だけを喪失させることができたのは詠春拳のすばらしいところかもしれません。

記事をお読みいただき、ありがとうございます。今日はとりとめのない考えの羅列で失礼しました。

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次
閉じる