武道・武術歴

私の武道・武術の経験は、真剣に取り組んでこられた専門家の方々と比較するとほんの些細なものです。この文章を書いている53歳の2018/12現在、体に大きなダメージを残していないところをみると、ずっと気楽に続けてきた結果だろうなあ、と思いますので。

前夜

最初に武道をきちんと習ったのは、高校に入ってからのことでした。それまではマンガやイラストを好む、運動が極度に苦手な少年で、実はこのころのことを思い出すのも嫌なことだったりします。正直に言って、このころの「私」を自分のことと認めたくないくらい、大嫌いなのです。それでも、私はその頃の自分に責任を持つ必要があるのですけれど。

さておき、そんな「私」は中学2年のある日に、友人、弟を伴って「さらば宇宙戦艦ヤマト」を観に行くことになりました。まさか、この場で自分の人生が大きく変わってしまうとは…。併映されていた「ブルース・リー 死亡遊戯」のインパクトはそれくらいすごかったのです。

ブルース・リーが映画で披露している華麗な技は「中国拳法」のものだといいます。当時は彼の影響で漫画雑誌に「中国拳法の通信教育」の広告が溢れていたので、彼に少しでも近づくことを決めた私は、お小遣いでそれらの教材を申し込むことから始めました。もともと、運動神経の発達が遅れていた私に、そんなものが役立つわけはなかったのですが、この教科書に採り入れられていた「真向法」はその後の私の空手道修行に大きく寄与したことについては付け加えておきます。

しばらくして、さすがの私も「通信教育」では武道を習得できないことは理解できました。さらに、教科書に載っていた「中国拳法」の型より、空手の動きのほうがより自分の理想に近いことにも気づいたのですが、近所に空手道場がなく、高校の部活動への入部が近道だろうということになりました。それまでの間、基礎的な鍛錬をしておこうと思って買ったのが、祝嶺制献先生の「空手鍛錬三ヶ月」でした。これはなかなか分かりやすく、体の各部位を鍛える、という意味では大変有益だったのですが、独学で覚えた「正拳突き」もどきの変なクセは、空手部に入ってからしばらくの間、私を悩ませました。

剛柔流空手道

高校は当時空手道部が存在した鹿児島玉龍高等学校を選びました。もともと入学初日に見学する予定でしたが、私より先に中学が一緒だった「いかつい」1年生が空手道部にスカウトされて、ビビっていました。最終的にこのいかつい少年ではなく、同行していたひ弱な私が入部することになったことで、おそらく先輩方はガッカリされたことでしょう。

入部当初は体力が足りない、先の書籍による事前練習での変なクセが抜けない、そしてもともと運動神経が鈍いほうなので、なかなか覚えない、と先生、先輩諸氏、同級生にも迷惑をかけっぱなしだったと思います。後になんとか練習にも付いていけるようにはなり、また部員数が少ないためなんとかレギュラーでいられました。

最終的には団体戦ですけど、ほかの選手の活躍もあって、2年、3年と全国大会まで出場することができました。3年のときに初段を取得することになりますが、なぜか私は段位や黒帯を崇拝するようなことはなかったです。今となってはその免状がどこにあるのかも分からないほどですから。

高校の部活動は競技空手が主となりますが、それよりも師範が教えてくださる剛柔流の本来の技の使い方などにより強い興味を持ったのを覚えています。また、定期的に会館本部に伺った際の、初代館長に直接指導をいただいたことも大変貴重な経験になっています。

この会館本部で、社会人道場生の方と組手を行ったことがありました。相手の方は白帯で、私はすでに黒帯。私はスポーツ組手(いわゆる寸止め)スタイルで、道場生の方は猫足立ちでの構え。私が攻撃に出たとき、カウンターの強烈な前蹴りが飛んできて、私の急所を襲いました。本能的にポイントをずらしたことで、実際に打撃を受けたのは恥骨でしたが、それでもかなりの痛み。相手の方の前蹴りが上足底での蹴りで、下から蹴り上げるものだったのではなかったことが幸いしました。

このことで、黒帯に慢心する高校生は、真剣に武術としての空手道を学ぶ白帯の方の足下にもおよばないという現実を体験しました。また、この件をきっかけにスポーツ組手が「武術ではない」ことを再認識したといえます。

剛柔流空手道の武術性、といえば、一度こんなことがありました。

高校では空手道部とは別に、生徒の全員が取り組む「クラブ活動」というのがあり、週に一度、そのクラブ生も練習に来ていました。このクラスに、175cm、86kg、49歳の師範を大きく上回る体格の生徒が参加してきたことがあります。

技の解説にちょうどいい、と師範がその生徒を選んで、「ちょっとこらえてね」とゼロの距離から軽くその生徒の腹を突いたんですけど…。そのあとが大変でした。その生徒は数メートルも吹っ飛んでいったあと、転げ回って、のたうち回りながらしばらく苦しんだのです。突いた側の師範もまさかそんなことになるとは思わず、困惑しながらその生徒を介抱することに。参加していた十数名のクラブ生たちが一歩も動けず、真っ青になっていたことを覚えていますよ。

そりゃそうです。

ケンカで有名な学校のヤンチャな2人組を眼力だけで倒した2学年上の先輩がいるんですが、その先輩が3枚に重ねた杉板の試し割りに躊躇していたことがありました。あとからやってきた師範が板を見るなり、至近距離から軽く打ったら、それらの板は「初めから割れていたんじゃないか?」というくらいに静かに、6枚の板になってしまったのです。板を持っている方も突然打たれた感じで、しっかり持っている様子でもなかったのに。その場にいた全員か唖然としましたね。

私が競技に参加していたのはこの3年間のみです。以降は、競技から離れて武道・武術をたしなむようになりました。

少林寺拳法の柔法

この高校時代の3年生のときに、師範はそのままで、学校の教諭の側が交代になったことがありました。少林寺拳法三段の、32歳のエネルギッシュな世界史の先生でした。

一度、この少林寺拳法三段の先生と道場内で組手をしたことがあります。公式試合のルールは寸止めでしたけど、道場内での普段の稽古では顔面以外は当てていたので、このときも同様に打ち合いました。

私たちは普段の練習からロングパンチのほうが得意だったんですが、この先生は中に入ってからの素早い連打が素晴らしかったです。見慣れない動きに一瞬戸惑いましたが、私は当時現役なので、攻撃のリズムに慣れたあとは圧倒しました。胸が真っ赤になったその先生に「やっぱり現役は強いね」と褒めていただいたのを覚えています。

この先生との思い出で特に衝撃的だったのは、その柔法と呼ばれる技術体系です。いったん極められてしまうと、もうなにもできないのです。

この経験から、東京に出てすぐに知り合った少林寺拳法の方に、柔法に関する個人教授をしばらくの間行っていただいたことがあります。毎日のアルバイトが終わったあと、夜中まで1時間の練習をしたのですが、残念ながらほとんど身につきませんでした。

この少林寺拳法の柔法については、一つ一つの技の精度がものすごかった印象があります。1ミリポイントがずれたり、力の方向が変わったら全く効かないのです。もともと覚えの悪い私がこれをマスターしようと思ったら、きちんと道場に通って、長期間の練習をする必要でした。ただ、剛法と呼ばれる少林寺拳法の突きや蹴りの技術については、空手が染みついた私にはどうにも合わず、さすがに道場に所属してまで修行するには至りませんでした。

後に詠春拳を学んだとき、私より2年ほど先行して習っている先輩がいました。すでに相当上達されていましたが、この先輩と、私の大学の同級生で少林寺拳法部の副部長のスパーリングの場を設けたことがあります。

当初は詠春拳の先輩が押しているように見えましたが、その先輩が突然崩れ、下に手をついてしまいました。詠春拳の防御技法のひとつである膀手を出した瞬間、手首を一瞬で極められていたんですね。

詠春拳

そして、22歳から23歳にかけて、詠春拳を学びました。

この少し前に、フルコンタクト空手の団体の、全日本選手と軽いスパーリングをさせていただいたことがあります。相手の方は相当力を抜いてくださっていたんですけど、技術的なものはもちろん、体格・体力の差も大きく、全く太刀打ちできませんでした。

この差を埋めるにはどうしたらいいだろう? まずはもっと練習することと、さらに筋力トレーニングにかける時間を増やすしかないと思われました。同時に、このときに頭に浮かんだのが、私が空手を始めるきっかけとなった、ブルース・リーについてです。

身長171.5cm、体重58-65kg程度の彼は、10代からアメリカで道場を開き、さまざまな人種、出身地の生徒たちに武術を教えていました。集合写真で見ると、彼より大きな生徒さんは数多くいたことが分かりますが、特に初期のシアトル時代は、こんな言い方をしては問題があるかもしれませんが、ちょっと若い不良っぽい人が多かったそうです。

こんな人種のるつぼのような環境で通用していた彼の武術とはどんなものなのかな、という興味が湧いてきました。

彼が少年時代に腰を据えて学んだ武術は、「詠春拳」という中国広東省が発祥と言われる武術で、彼自身が後にプロデュースする截拳道(Jeet Kune Do)のベースになったものと言われます。この詠春拳は、近年では映画「イップ・マン」で有名になりました。

当時、関東近辺でもいくつかの練習場があったので、そのうちのひとつをまず見学することにしました。

ところが、その練習を見ていると、なんだか「もにょもにょ」ともみ合っているようにしか見えません。正直「こりゃダメだ」と思って帰ることにしたのですが、そこの先生が「ちょっと試してみませんか?」とおっしゃいます。どうみても強そうに見えなかったので、「いいのかなあ」と思いつつ組み合ったら…。

正直何をどうされて、どうなったのかまるで分からないままコントロールされてしまう一方でした。簡単に腰から浮かされ、バランスを崩し、気がつくと私の下まぶたの下や耳の下を先生の指先が「軽く」えぐっていました。しかも、先生は途中で目をつぶったりしています。

また、軽くえぐっただけではわからないだろうと、胸にパンチング・バッグを持たされて、これまた軽く「寸勁」を打たれました。ターゲットの至近距離から突然打ち込む技法のことです(類似の技法として、ブルース・リーのワンインチ・パンチが有名)。胸に弾丸を撃ち込まれたような強い衝撃があり、そのあと数メートル吹っ飛ばされました。

いくら何でもこういうやられ方をした経験はなかったので、この一件不思議に見える武術を学ぶことに決めました。

その後すぐに私は社会人になり、ある大きな理由でこの団体の元を離れたので、実質濃密に練習に参加していた期間は半年ほどと短い期間で、その後は散発的な練習参加のみでした。

とはいえ、熱心に通っていた当時は空手のクセを徹底的に抜くことの必要性を感じて、1日を通して長時間の練習時間を取っていました。また、道場を離れた後も先輩弟子の方との交流を少しの間続けたこともあって、この詠春拳が今でも一番影響を受けている武術であるといえると思います。

この道場で正式に習ったのは、型としては小念頭、尋橋の導入部、木人椿の導入部のみです。ただ、あとで整理してみると、尋橋、標指、木人椿とも、技の適用や分解として、かなり習っていることがわかり、当時記録していたノートに「標指の技」「尋橋の技」「木人椿から」というようにメモしていました。現在、有名な師範らによって公開されている資料や動画と照らし合わせると、当時個別に習った内容を、かなりの部分を続けて行うことができることが分かりました。

それで、現在でも当時に習ったもののうち、自分に合っているものを抜き出して練習したり、バラバラで習った技法から尋橋や標指を組み立てて練習をしたりしています。

今後

今後も、これまでに習った武術の練習は続けていきますが、一定期間を経た後は、道場は違っても再度同じ流派、門派の団体に所属したり、別の武術についても学びに行ったり、何かの競技を目指す可能性もあるかな、と思い始めています。

単発、短期間のセミナーはときどき受けに行ったりしていましたが、今度は長期間籍を置いて、一定レベルに突き詰めるようなことがしたいですね。

今は、過去に習った武術を自分なりに追求するというスタイルにもある程度満足していますが、新しい技や体の使い方を学ぶことや、あるいは学生時代のように競技に参加することは、今後の修行のモチベーションを高めるのに一役買うのではないか、と思っています。

現状はまだ、希望を満たす道場や団体、高齢な修行者が参入できる競技のようなものも見つけきれていませんし、今すぐ「どうこうしよう」というような希望があるわけでもないので、成り行きに任せて練習を進めたいな、と思っています。