今日はブルース・リーの48年目の命日でした。「友よ、 水になれ——父ブルース・リーの哲学」の発売・到着を楽しみにしている今日この頃です。
そんな中、こんな動画が目につきました。
話している内容は非常に偏りがあるのでそんなに真剣には見ていないけど、一理あるな、とは思いました。
その昔、詠春拳のスクールに通っていたとき、香港から詠春拳の練度が高い方がやってきたことがありました。実際、詠春拳の黐手ではその人に全く太刀打ちできず、同じ年齢なのにスゴい人がいるものだと思ったことです。
でも、そのときの私は比較的冷静にその人を見ていて、試合で本当に戦うことを常としている人たちに「試合で」勝てるかというとまた別の話だなと考えていました。それまで私は空手をやっていて、全国大会も2回ほど経験していましたから、私自身も練度の高い技術のほうを選択して彼と戦うとまた違った結果になる、という実感はあったのです。当時のノートをみると、そのあたりの感想を記録したものが残っていました。
でも、スクールの中の雰囲気はちょっと違うんです。「こりゃすごい」「どうだ、フルコンタクトの空手の大会に出てみるか。面白いことになるぞ」なんて先輩や師範たちが盛り上がっていたりして…。その頃は中国武術の他団体でも一定のルールを設けて試合の開催を試みている段階ではありましたので、私は本当に彼を出してしまうんじゃないか?と心配になってしまいました。
「彼の突きは強力なので十分に相手を倒せる」というのはある意味確かな部分もありました。でも、突きや蹴りだけで言えばもっとすごい人を何人も見てきました。そりゃ、練度の高い詠春拳の突きを準備ができていない状態でまともに何発も喰らえば危ないですが、いざ、お互いにアドレナリンが分泌されまくっている状態で準備を十分にしてきた相手と試合をすれば、その彼の突きでも簡単には倒せないのではないかと感じました。
また、山田英司先生が何かの本で中国武術の現代格闘技への適用について丁寧に書いていましたが、詠春拳をかなり忠実に使って戦うにしても、「相手の技に対するアダプター」を作っておかないと通用しないでしょう。もし、詠春拳をある程度研究されていたら離れている間合いのハイキック一発で終わる可能性もあると思います。
このように、ひとつの伝統を守る流派というのは、確かに古いものを残しているという意味で価値があると思います。ただ、それがすごいものだから、他にも通用する、圧倒するという考えは、井の中の蛙でまさしく危険な考え方としか言いようがありません。
古伝の技術は現代格闘技や他国の格闘技に必ずしも対応できるものではなく、基本的には50-100年前の近隣の武術に対抗するための技術体系だと思います。さらに、本来はその古伝でさえ、ある一時期まではいろいろと試行錯誤しながら発達してきたものだということも理解しておかなければなりません。周辺状況は絶えず変化し、認知できる世界も広がっているのに、ある日いきなり「古伝」として発達が止まるのはおかしな話だとは思いませんか?
また、アダプターも確かに有効だとはいえ、詠春拳(の古伝)が知らなかった新しい競技や武術への対応を考える場合は、その競技・武術の中で長く練られ確立した対応法のほうが効率的だったりもする場合もあるので、そちらを学んだ方が良いケースもあると思います。私の先生はミドルキックを上下Gan Sao(UTF8でも文字を出せませんでした…)で「ふわっと」受ける、とおっしゃっていたのですが、それこそ那須川天心選手や武尊選手の蹴りをピンポイントで受けるのは難しいでしょうから、操作を誤って尺骨辺りを痛める可能性が大です。それより、キックボクシングや空手で数十年培われてきた受け方を使うほうが安全といえます。
そのキックボクシングや空手の受け方に詠春拳的な工夫を加えたり、その状態からまた純粋な詠春拳の技へつないだりするのは私は決して不自然ではないと思っていて、詠春拳が弱いとか、価値がないとは全く思っていません。だから、上記の動画の表現は極端だと思います。
試合に限らず、護身の面で考えても、攻撃者に対して知識を持っていれば、詠春拳という「核」は必ず役に立つと思います。ただ、実際に戦う姿は、詠春拳の専門家から見ると「詠春拳には見えない」ことがあるかもしれません。相手の多くは詠春拳を使っては来ないでしょうから。
もし、紹介した動画が形にこだわりすぎる詠春拳に対する批判、ひとつの古伝が何にでも通用するという誤解を批判しての極端な表現だとすれば、理解できる部分もあるということです。動画では、ドニー・イェンさんの「葉問」シリーズで詠春拳のイメージが誇張されすぎたイメージに対する警鐘も含んでいるように見えましたが、あれはエンタメだと理解することが重要ですね。あれはエンタメにすぎないから、詠春拳が弱い、というのもちょっと。
まあ、武術や格闘技を「強い、弱い」でくくるのがまず、不適切なのかもしれません。その人の意識と使い方で「役立つ」「役立たない」が定まってくるのではないでしょうか?
最後に、詠春拳を捨てて(?)截拳道を創始したブルース・リーの話に戻ります。確かに、彼の技術は詠春拳からかけ離れていて、もう忘れてしまったかのようにも見えますが、スパーリング映像やデモンストレーション映像、映画の映像を見るとかなり色濃く、詠春拳の基本的な力の使い方を残していたり、ちょっと使う筋肉は変わってしまうのですが応用的に使ったりしているようには見えるのです。
なので、前にもちょっと触れたとおり、ブルース・リーの力の運用は完全に「(古伝の(^^;))ボクシング」や「フェンシング」に置き換えられたものではなく、「ブルース・リーの長年の修行の結果得られた打ち方、力の使い方」を用いていたと思います。お弟子さんたちがどうしても「截拳道が完全に西洋格闘技だ」と主張するのであれば、ブルース・リー自身は截拳道以外にも技術体系を持っていて併用していた、ということになる気がします。
詠春拳から截拳道への変化が正しいプロセスなのかは私にはわかりませんが、それでもおそらく、ブルース・リーには必要な「変化」だったのでしょう。
命日にちなんで、ブルース・リーに絡めて詠春拳を眺めてみました。