高校の最上級生となる3年生となりました。我が空手道部は慢性的な人員不足に悩まされる存在のようで、このときも4年生3名、2年生1名と団体戦に参加するには1人足りません。
そこで、以前もそうしたように、退部した生徒を再度スカウトすることにしました。Eくんと言って、1年生のときに退部していた同級生です。「闇」のコーナーでも書きましたけど、ある先輩の人間サンドバッグ練習で私以上に犠牲になったEくんです。最近まで、Eくんが退部したのはそれが原因だと思っていましたが、近年東京で再会したときに聞いたところでは、それが主因ではなかったようです。
2年のブランクを経たタイミングでの復帰は難しいだろうな、と思い恐る恐る頼んでみました。彼は、同級生の空手道部員が困っていることを知り、なんと二つ返事で引き受けてくれたのです。師範も喜び「4人の中でおまえを一番強くしてやる」と言ってくれたそうです。
体力水準も技術も、休むことなく続けてきた他の同級生と比べると差が大きく、これを埋めるのは大変な努力が必要だったと思います。そんな試練を彼は乗りこえ、最終的にEくんと2年生1名を含めた5人での鹿児島県大会出場が決まりました。
この鹿児島県大会のときのことはより記憶に残っています。私たちにとって、大きな波乱が待ち構えていたからです。
私たちは4年連続での全国大会出場がかかっている「団体形」の練習には相当力をつぎ込んできていました。それなのに、鹿児島県大会で2位以内に残ることができませんでした。すなわち団体形での出場は3年連続で途切れることになります。この団体形競技が終わったあと落ち込む私たちを、師範が体育館の隅に連れて行きました。
「もう、団体形では全国大会には行けん。次は何をすべきか、分かるな。気持ちを切り替えろ! 気合いを入れい!」と一喝したかと思うと、師範は男子レギュラー部員全員の頬を1人ずつ張っていきました。我々に残された唯一の道は団体組手で2位以内に残ることです。全く想定していなかった状況に対応するのに、初めての師範からのビンタは役立ったようです。
私たちのチームはいい感じで勝ち上がっていきました。といっても、他の4人が活躍してくれたのだと思います。私といえば、殴られての反則勝ちはあったような気がしますが、他は引き分けか負けというように、勝ち切れなかった記憶しか残っていないので。
殊勲賞は、準決勝で闘ったEくんでしょう。さすがに厳しいかと思った中、捨て身の戦法で中段突きに行き、顔を殴られ、反則勝ちを得たのです。私も他の部員も、相手の反則をアピールするのが上手くなく、損をすることが多かったのですけど、彼は顔面に受けたダメージを素直に表現できました。あとで聞いたら「なんとしても勝ちを得たかったので、自分にできる最大限のことをした」とのこと。そしてこの勝利で、私たちの決勝進出が決まったのです。2位以上が確定したことで、団体組手での全国大会出場も確実になりました。Eくんがいなかったら、達成できなかったことですので、今でも感謝しています。
決勝戦は、全国でも数本の指に入る鹿屋工業高校で、結果は全敗でした。ただ、先鋒についてはかなり頑張っている姿が記憶に焼き付いています。私の番、副将戦だったと思いますが、私は2-1とリードされた状態で追い詰められ、とっさに出た前蹴りが相手選手の急所周辺にヒットしてしまいました。転倒した相手選手の表情は真っ青になっていましたが、アピールしてこなかったことに助けられました。
公式戦ではファウルカップを付けているので、おそらく「グリッ」と中心がずれたのではないかと思いますが、後にビデオで見た後輩によれば、相手選手も蹴りを出そうとしていて、私の蹴りはその軸足に近い部分を蹴っているように見えたとのことです。いずれにせよ競技空手の前蹴りは上足底(母指球)をピンポイントで当てるようにするので、丸いものや軸足を蹴るには向いているとは言えません。
このあと、相手選手が攻撃を仕掛けなくなり、私もポイントをとれずにそのまま負けてしまいました。
この私の試合が現地の新聞にかなり大きな写真で掲載されたことで、わが校でも話題になりました。この写真、一見すると私が勝っているみたいに見えるわけですが、解説文を読むと逆に2-1で負けている、ということでクラスメイトには結構ウケてました。
このときの写真、探しているんですけど、見つからないんですよ。見つかったときには掲載します。
九州大会については、不思議なくらい覚えていません。宮崎開催だったのは間違いなく、宿舎の窓から見る日南海岸の風景が微妙に記憶に残っています。1年前の長崎とは異なり、とても静かな印象でした。
そして7月。2回目の参加となる全国大会は兵庫県にある神戸市立体育館で開催されました。それまで私は九州を出たことがなく、初めての本州旅行だったことを思い出します。宿は高校野球でも使われる「御影荘」さんでした。公式ページの写真を見る限り、宿泊したのは「鶴の間」だったような記憶があります。確証はないですが。
私たちの他、鹿児島の強豪チームの女子選手も宿泊していて、初めてお話しする機会を得てウキウキしていたことを思い出します。印象深いのは私たちと同い年の若い女の子、2人のユウコさんがここで働いておられたこと。1人はアイドル顔、1人は「Theかぼちゃワイン」の主役にそっくりで、魅力的でした。試合が終わったあと師範が2人を誘ってくださり、三宮だったと思いますが、地下街をおふたりに案内していただいたことがこの旅行の最大の思い出かもしれません。
御影や三宮は1995年に発生した兵庫県南部地震でも被害を受けた地域ですが、当時知り合ったこの2人を含め、関係者のみなさまがお元気でおられることを願っております。
さて、肝心の試合ですが、1983年の全国高等学校空手道選手権大会は神戸市立体育館で行われたようです。現在、神戸市立体育館で探すと、ピンポイントで見つけることができないのですが、上の写真が湊川神社ではないかと思われるので、その周辺にあると思われます。この体育館でのブラスバンドによる入場曲にしたがって、開会式に臨むシーンが脳裏に焼き付いています。今でもイメージトレーニングで気持ちをプラスに持って行きたいときは、このシーンと入場曲を利用することが多いですね。
さて、団体組手で臨む初めての全国大会での1回戦。当然、全国大会出場を目標とするチームが、全国大会上位入賞を狙っているチームに勝てるわけもなく、1回戦で敗退してしまいました。
ただ、感覚として覚えているのが、「ルールが県大会と全国大会では微妙に違っているのではないか?」ということでした。県大会のときと、同程度の速度、正確さ、タイミングで打ち込んでいるのに、全く1本を取れません。副審の旗ひとつ上がらないのです。記憶では3本以上、県大会なら取っていたと思うのですけど、0でした。
逆に、相手選手の突きはふわっとしていて遅くて、芯がずれていて「確実にかわした!」と自信があるのに、審判全員の旗が上がるのです。当時はワケが分からず、これでは絶対に勝てないと思いました。いや、自分だけでなく、他の同僚選手たちの試合を客観的に眺める形でも同じでした。
おそらく、私たちが県大会でやってきたような試合のやり方が全国大会を意識していなかったので、対応できなかっただけでしょう。たぶん、私たちの突きは「浅い」「引きが速くない」と見られ、逆に相手校の突きは「十分」「引きが速い」と評価された、というような理由があったはず。組手で全国まで進んだことが初めてだったわが校が受けた試練でした。
目標が目標だったので、この敗戦も私たちには大きなダメージではありませんでした。むしろ、現役最後の試合を無事に終えたことで、全員ホッとしていたかもしれません。
話は逸れますが、宿舎の「御影荘」さんの近くに昔ながらの書店があり、そこの片隅に置いてあった「極度に濃い」資料を見つけました。
なんかすごそうでしょう? お顔が私の師範に似ておいでであること、また著者のお名前が館長先生のお名前に似ていることから、縁を感じまして…。この書籍、今ではamazonでもプレミアが付いて、4万円超えているんですね。驚きました。
それにしても、中身に相当なインパクトがありまして…。
指先で短距離から突いて、敵を吹っ飛ばす、という技の紹介。指の回転に合わせて、打たれた方も回転しながら頭から落ちていきます。確かに、電話帳が物理的に大きな、速いスピードでエネルギーを受け止めたことは写真から分かりますが、この吹っ飛びようには、当時の私にも懐疑的でした。
ただ、この一連の連続写真はいろいろなところで取り上げられ、当時かなり話題になっていたことを思い出します。
この写真にはかなり驚いたのを記憶しています。試し割り用の重ねて割りやすい瓦ではなく、屋根瓦を26枚粉砕しているのです。オリジナルの書籍の写真では、つぶれた瓦から舞い上がる粉塵や砂のような物質の舞い上がり方がかなりリアルに伝わります。
以前紹介させていただいた「空手鍛錬三ヶ月」の中でも、玄制流空手道の祝嶺制献師範が屋根瓦34枚を割っているんですが、こんな潰されるような壊れ方とはちょっと違う印象で、似た武術でも力の使い方は変わってくるものだな、と思ったのを覚えています。
特にこの試し割り写真は私たち同級生の間でも話題になりましたが、師範は中身を少し覗いて、「フン」と笑って去って行ったのを思い出します。
また、数年後に中国武術を習い始めたときにもこの書籍は話題に上りましたが、「くれぐれもこの内容で練習はしないでね。」と釘を刺されました。私が交流した中国武術の方々のほとんどは、この書籍に好意的ではなかったのです。
話を全国大会に戻します。この大会での試合が、私たち世代の最後の試合となりました。3年生の夏。競技引退です。1年生のときからこの日まで、ほぼ休むことなく空手道の練習を続けてきて、振り返る暇もなかった気がします。ここから卒業まで、習った技術を整理したり、部活動の練習では試せなかったことを改めて学んだりする時間を取ることができるようになったのでした。