いいとも

ジャッキー・チェン

スポーツクラブでの練習

三島での生活は大変楽しかったものの、東京に来てから私の生活は激変します。規則正しく生きる生活から自由すぎる生活に。

アルバイトでスポーツクラブのフロント業務に就いたこともあるでしょう。毎日帰るのは夜中だし、時給も安いのでシフトをたくさん入れないと生活が厳しくて、次第に大学から足が遠のきました。スポーツクラブの業務に触れ、専攻していた中国文への興味がどんどん失われていったのもその原因でしょう。最終的に、大学4年生の途中で中退をすることになり、このことは今でも両親に申し訳なさすぎることをしたと反省しています。そういうひどいことをした自分を両親は普通に受け入れてくれていることもあって…。本当にごめんなさい。

今でもよく夢を見るのです。大学に通いなおして、単位を取り直す夢を。この夢はシリーズで見ることもあって、何とか講義に出席しようとするけれども、日常に追われてさらに単位が足りなくなっている…と苦しむ。この夢を見ると、しばらくは落ち込む。

「後悔先に立たず」。すべてが中途半端だった印象がある自分に対して、今ではそうならないよう、努力を続けています。

さて、当時所属したスポーツクラブには大きなサンドバッグが確か3つ下がっていました。またパンチングボールも2つあったのを記憶しています。

私はフロント担当でしたけど、ジムには空手の経験者が2人、配膳係に少林寺拳法の修行者が1人所属していました。のちにプロのキックボクサーも入ってきて、このスポーツクラブは私にとって、とても刺激的な環境だったといえます。

極真空手の有段者の方には、蹴りのやり方を教えていただきました。そのローキックは適度に力を抜いて、足を走らせる形で、しなやかでした。膝が伸びる力を使って足を戻すようにしていた印象があり、回転も速くて連打も効きます。それに対して私の蹴りは一発一発、蹴り足にかなり力が入る蹴り方であったため、少ない回数で疲れてしまう上、ターゲットに食い込むというより押す感じになってしまっていました。また、自然な連打ができず、1発目は強くても2発目、3発目でバランスを崩したり。

蹴り足の力みについては、のちに入ってきたキックボクサーにも指摘されました。キックボクシングの蹴りは、極真空手とは違いましたけど、同じようにすごく力が抜けていました。

一度、ムエタイの経験のあるタイ人がジムに練習をしに来たことがありました。非常に引き締まった体をしていたので、ただ者ではない感じでした。彼は私のとなりに来て、サンドバッグを蹴り始めました。猛烈な蹴りです。私も負けじとバッグを蹴りますが、なんか音が違う(苦笑)。なんだか我慢比べのように二人してバッグを蹴り続けるものの、おそらく我慢していたのは私だけでしょう。タイの方は涼しげな表情でしたから。

もう、大きな差を感じてしまって、打ちのめされましたね。タイ人は踵を思いきり浮かせ、膝を極端に折りたたむこともなく、直線的に蹴っていました。足の動きがまるでムチのようでした。

それに対して私は踵を床につけ、少し外側から膝を抱え込んで曲げ、回すように蹴っていたと思います。ムエタイの蹴り方、空手の蹴り方、それぞれサイエンスがちがいますので、どちらが優れている、とはいいません。ただ、私の蹴り技はまだまだ未熟でした。

その後ずいぶん経って、直接タイのチャンピオン同士(ラジャダムナン、ルンビニー)の試合を2回ほど観戦する機会を得ましたが、このときも応酬される技のレベルの高さには驚きました。幼い頃から完成度の高い技術を練習していると、非常に高い水準の技量にまで上り詰めるものだと。

あと、武道関連の体験で特に忘れられないのが、配膳係のT先生です。少林寺拳法の練習を積まれている方で、段位などは不明なものの、動きが安定していてスピーディでした。

そのT先生に対して私は「自分は打撃はやってきたので、少林寺拳法は柔法しか興味がない。教えてくれませんか?」みたいな、本当に生意気な口を聞いてしまいました。少林寺拳法は剛法、柔法とそれぞれが独立したものではなくて、高度に融合されたものであることを理解していなかったのです。

そんな私をT先生は快く受け入れてくれて、ある日から毎日、業務終了後にジムに行ってマン・ツー・マンで柔法を教えてくださいました。先生の柔法は本当にすごくて、何をされているか分からないままころころ投げられてしまったり、簡単に関節を決められたりしてしまうのです。単純に握られただけで、重心を浮かされてしまう技術にはびっくりしました。

高校時代にお世話になった、少林寺拳法三段位を持つ空手道部の顧問や、三島時代の同級生の技、四国学院大学の少林寺拳法部の技をいくつか体験はしていましたけど、やはり少林寺拳法の技術体系はすごい完成度だな、と思った次第です。

毎日1時間くらいずつ習ったはずなのに、結果から言えばほとんど身につきませんでした。自分のセンスが足りなかったのもあると思いますが、学ぶ姿勢からして中途半端。無駄にT先生の時間をいただいてしまったことを本当に申し訳なく思っています。

その後、業務後の私のトレーニングはストップをかけられてしまうことになります。

私はT師匠がいない日は一人でパンチングボール、サンドバッグへの打ち込みをやっていたのですが、サンドバッグの鎖を切ること2回、ボールの支柱を折ってしまうこと2回、といくつかトラブルを起こしたのです。「これでは次の日の営業に差し支える」と怒られ、夜の出入りが禁止になってしまいました。今思えば、お客様のための施設を自分の都合で壊して、営業に支障を与えた当時の私の行動は浅はかなものでした。

ジャッキー・チェンさん

このスポーツクラブに所属していたとき、私の人生の中でみて最大級の体験がありました。1985年の7月かな。私の武道好き、ブルース・リー好きを知っていたアルバイト先の先輩社員が私に

「明日はバイトを休んでもいいから、『笑っていいとも』に出てこい。ジャッキー・チェンが来るから」

と言うのです。

正直、当時の私はジャッキー・チェンさんには全く興味がなく、めんどうなので一度は断りました。ですが、あまりにもしつこく勧めてくるので結局は逆らえず、翌日のアルタのオーディションに早朝から参加することにしました。

急な話で何をするかが全く決まっていなかったので、とりあえず中国服とヌンチャクをバッグに詰めて、当日スタジオアルタに向かいました。

当日のオーディション参加者は9組。うち3組はジャパン・アクション・クラブだったこともあって、私が3組に残るのはちょっと難しいかなあ…と感じました。

当初、私は人の頭の上に載せたターゲットを飛び後ろ回し蹴りで蹴る技を披露することを考えていました。しかし、急な参加でしたのでよく考えたら(考えなくても)パートナーがいません。スタッフに協力をお願いしたところ、身長190cmくらいのスタッフが…。

一か八かで何とか成功はしたものの、頭の上のターゲットが客席に向かって飛んでしまうし、試技は一瞬だし、どうも受けが悪い感じがしたので、急遽「ヌンチャク」に変更してオーディションを続けました。

この判断がよかったようで、オーディションをパスして3組に残ることができたのでした。せっかくなのでまず実家に電話をし、とにかく昼からの「笑っていいとも」を見てくれ、と伝えました。

リハーサルには所ジョージさんはおられましたが、タモリさんはいらっしゃらず、本番で初めてお目にかかることになりました。

その後他の合格者たちと控え室まで歩いていると、前を歩いていた出演者が次々と振り返るではありませんか。

「なに、なに?」と聞くと、「ばか。今通ったの、ジャッキー・チェンだよ!」と。私はこのとき、後ろ姿だけを確認しましたが、よく分かりませんでしたね。

私たちオーディション合格者が控え室で準備をしていると、間もなくジャッキー・チェンさんが入ってきました。テーブル席にどかっと座り、新聞を見ています。このとき、新聞が逆さまだったのを記憶しています。わざとか、どうかまでは分かりません。私たちとは目を合わせませんし、笑顔もありません。その後、ジャッキーさんの通訳さんも入ってきて、何やら2人は真面目な顔で会話をされていたのを覚えています。

少し経って、二代目いいとも青年隊がサインを求めて控え室にきましたけど、通訳も怖い感じの人で、にこやか…という感じではなかったです。私たちのうちの誰かが「これ、サインくださいって頼める雰囲気ではないよね」と残念そうに言ったのを覚えています。

そして、本番。私は一番最初の登場。最初のキックは、果たせなかった跳び後ろ回し蹴りの代わりです(笑)。

実演中にヌンチャクを投げてしまうというハプニングはありましたが、何とか終わりました。2番目の空手選手が見せたバット折りも当時は「すごいな〜」なんて思っていましたけど、今では圧縮バット1本くらいでは「何もないに等しい」感じがするくらいになっていたりするので、私も成長したのでしょう。

最後の三組目のグループのアクションは本当にすごかった。ジャパン・アクション・クラブの3組も似たようなアクションはされていましたが、この参加者たちには到底及ばない感じでした。

結果、この三組目が大賞を取ったのですが、最後にどさくさに紛れて私もジャッキーさんと握手することができました。

控え室では厳しい感じのジャッキーさんでしたが、いざ企画が終わったあとは上機嫌で、笑顔で挨拶してくださいました。彼はプロ中のプロなので、「出演者」側には厳しいんじゃないかな?私たちが控え室にいた段階では、ジャッキーさんと同じ「出演者側の人間」という見方をされていたのかもしれません。 本番が終わって、企画の趣旨がわかり、私たちが「ファン側」であることがわかったのでしょう。いい思い出になりました。

こんな体験をさせていただいた、ということで、当時のアルバイト先の先輩社員には本当に感謝しています。

格闘技とは関係ない部分でも、いろいろと思い出深いことがありますね。新宿にあったこのスポーツクラブはすでに存在しないので紹介させていただこうと思います。

当時のこのクラブには、多くの芸能人さんが会員にだったり、ゲストで来られたりされていました。私にとって特に印象深かった方を紹介させていただくとすると…。

まず、三島でエキストラ参加した「乱」ではお目にかかることがかなわなかった、原田美枝子さん。たまたま私が接客させていただく機会を得ました。透き通るような美しさと、カリスマ、立ち居振る舞いに感動を覚えました。

あとはゲストではなかったのですが、アルバイト中に「今、上でロケやってるよ」と聞いて、近くで拝見することになった坂口良子さん。撮影の合間に空を見上げる姿がキラキラしていて、今でもその光景を明瞭に覚えています。

そして最後に。先輩社員が、フロントカウンターのバックヤードにいた私に「いい機会だから、今来たお客さんを接客しろ」と言われて表に出たら、なんと松田優作さんがいらっしゃるではありませんか。身長が180cmくらいのはずなのに、不思議なことに2mくらいあるように感じてしまうのですよ。契約ロッカーの話などもする必要があったので、比較的長時間の接客になったのですが、生意気な私を軽く呑み込む、圧倒的なオーラがありました。

実は翌年も同じパターンで松田さんを接客させていただき、このときも同じように、身長2mの偉人に感じてしまいました。このときは、後ろにマネージャーさんがいたと思いますが、まだ幼い龍平くんも一緒に来ていて、「似ているなあ」と思った記憶があります。

身長2mって、すごい感覚のように思えますが、のちに極真空手の七戸康宏選手を目の前で見た時や、プロレスラーの藤原組長とお話しさせていただいた際にも同じ感覚がありました。特に七戸選手のときには、「どんなに練習しても絶対に超えられない壁」のようなものを感じました。

このスポーツクラブにいるうちに、自分の将来が見えてきて、スポーツクラブで運動に関わっていきたいなあ、という気持ちが明瞭になっていきました。このこともあって、フロントからジムへの異動を何度も所属先に打診しましたが、残念ながら、このクラブでジムのインストラクターになるのは無理、とのことでした。私も生意気で、フロントでは社内でかなりトラブルを起こしていましたし、インストラクターになるには実績が足りなさすぎると。

フロントマンの当時の時給は530円。1年後に入ってきたアルバイトは最低賃金の改正かなにかの理由で、550円という逆転現象が起きたことがあり、これが気に入らなくて、一時期荒れましたよ。若気の至りですが。

わずか1年半くらいの間でしたけど、なかなか中身の濃い時間を過ごさせていただきました。寛容かつ優しく接していただいたお客様、スタッフのみなさまに感謝いたしております。