約束組手・分解組手

空手道部の闇

ここまでに紹介させていただいた練習風景だけ見れば、順調に進んだように見える私の「下級生時代」。しかし、実態は「地獄」そのものでした。

当時の関係者がこれを読んでしまったら…ということもあって、この章を書くのは躊躇しました。でも、昨年、2018年にスポーツ界のパワハラ、暴力が次々と明らかになり、事件になったものもありました。私にとっては、これらの一連の出来事はどうしても人ごとには思えません。この機会に自らの反省も含め、当時起こったことの一部を書き残しておくことにしました。

旧態依然とした当時の空手道部の練習は「練習中は水を飲むな」的な「しきたり」もきつかったんですが、それ以上に上級生による私的な「しごき」に悩まされていました。

それは、大会要員不足を解消するために、1年生のときに退部していた「先輩」を呼び戻したことによって引き起こされたものでした。

初めてお目にかかったとき、前日まで面識がなかったY先輩に「気合いを入れんかあ!」と竹刀を振り下ろされたときには本当に驚きました。年長とはいえ、1年間練習しておらず、空手道歴は私たち1年生とほとんど変わらないのですから。それでも、3年生や師範には彼をきちんと「先輩」として扱うように言われていたので、年功序列の武道部では我慢するしかありません。

今思えば、キャリアが浅い彼にも自分なりのプレッシャーがあり、「舐められたくない」「オレがこの部をなんとかしなければ」という思いがあったのでしょう。

練習中の表面的なしごきはともかく、もっと困ったのは、先生や3年生がいないところでは、Y先輩の行動がもっと陰湿なものになること。

「たるんでいる」という理由で暗い、誰もいない部室で正座させられ、殴られたり蹴られたりしたこともありましたが、一番危険だったのは、彼が「練習においては、先輩は後輩に対して一方的に殴っても蹴ってもいい」というルールを自分で設けていたことだと思います。

例えば、「組手の練習をやる。こっちから攻撃するから一切避けるな。」といい、一年生を的として立たせたかと思うと、サンドバッグ代わりに一方的に殴り続けるという練習を良くやっていました。私のカラダには今でも1本だけ肋骨が膨らんでいる部分がありますが、標的として立たされ、思いきり蹴られた痕跡です。

そのうちこれがエスカレートし、ついには顔面を思いきり殴るようにもなりました。このときの1年生全員がこの被害を受けていますが、私のケースで一番記憶している回は、1年生の冬休みの直前の出来事です。本来は寸止めでお互いに攻撃を数分、防御を数分と交代でやるのですが、事前に反撃しないように命令されていたため、いずれも私が殴られるだけでした。

殴られながら思ったのは、これだけノーガードで打たせてあげてるのに意外に効かないな、ということです。「これで一撃必殺の空手と言えるのか」。

200発以上全力で殴っても倒れない私を見て、先輩も段々ムキになってきました。不思議なことに、この日の練習の後半から、自分が滅多打ちされている風景を「外から」眺める形で記憶しているんですよね。まとめてパンチをもらいすぎておかしくなったのでしょうか。

最終的に、ワンツーで横を向かされ、姿勢が崩れたところで、こめかみにトドメの3発目を受けて、頑張り続けた私もついに床に倒れてしまったのでした。

「やっと倒れた」という安堵の表情と、「やばいかも」という表情をしたY先輩でしたが、私に意識があることを確認すると「おまえを鍛えるためにやったことだからな。ほかの一年生も中原を見習え!」と確かに言いました。意味不明な場違いの言葉だったので、今でも忘れられずにいます。

このときの様子には、ほかの1年生部員も引いていましたが、そういう態度が気に入らなかったのでしょう。「1年生は気合いが足りん。全員丸刈りにしてこい」という命令がY先輩の一存で下りました。この丸坊主指示も、実は以前にあったある約束を反故にしたものだったのですが、書いていて気が滅入るのでそれには触れないことにします。

当時の私たちは従順だったのでしょう。いやいやながら丸坊主にしました。学校でもクラスメイトが「何があったの?」とひそひそ話す声が聞こえていました。顔も試合後の負けボクサーのような状態でしたし…。

この練習の直後、冬休みに入ってからの練習だったか、引退した3年生の先輩が練習に出て来られました。私のひどい状態の顔を見るなり「あ〜あ、知らんぞ」とY先輩に言ったのを覚えています。Y先輩が「いやあ、あはは」というような態度を取ったのを見て、私の決意も固まりました。絶対にお返ししてあげようと。これが、私が空手道部を3年間続けられた理由のひとつだと思います。

その後練習に来られた師範にもY先輩は釘は刺されたようですが、その一連の対応には個人的には失望していて、この時点でも師範や3年生への信頼は薄れつつあったと思います。

だいぶあとになって、母から「あのときは不安だった。」と告白されました。私が顔を腫らして帰ってくるのはこの1回だけではありませんでしたし、突然坊主頭になりましたから。それでも、父から「困れば本人が何か言ってくる。信じろ」と言われ、行動を起こすのを思いとどまったそうです。結果的にそうしてもらって本当に良かったと今でも思います。もし両親が学校に訴えていたら、すでに問題を起こして道場を奪われている空手道部は廃部だったでしょうし、私も全国大会出場なんて経験はできなかったはずですから。

このような地獄の日々を私たちの学年は乗りこえ、そして時は下って1年後の新年の合宿を迎えます。

このとき、3年生になっていたY先輩はいったん現役を退いていました。ただ、合宿の夜間練習には参加して来たのを覚えています。そして、そのときの練習カリキュラムだった約束組手の相手に私を指名してきました。

約束組手・分解組手
約束組手・分解組手

約束組手というのは、1人が攻撃し、1人が受けるという組練習のことです。私が1年生の頃は、先輩方の強力な突きを私が十分に受けられないまま、顔面や胴体をいいように打たれ続けました。「受けられないのが悪いんじゃ」とY先輩は主張していましたが、それは私も同意するところではあります。

この合宿でも、先輩は以前と同じ感覚でいたのでしょう。しかしながら、すでに私も2年生となり主力選手の一人です。私は彼の全力の突きを受け止めるばかりか、わざと痛くなるように強くぶつけました。またたく間に彼の腕が真っ赤になり始め、突きの力が一気に弱くなっていくのが分かりました。先輩は明らかに狼狽していましたが、いくらなんでも先輩のプライドから、「ちょっと優しくして」とは言えないでしょう。

次の私の攻撃の番で、先輩は私の突きを全く受けることができなかったので、顔面以外は構わず強打しました。約束組手は素手での練習ですので、顔を傷つけるといろいろとまずいので。

先輩は本当に大変だったと思いますが、でも、何も言えないですよね。「受けられないほうが悪い」とおっしゃったのは先輩ですから。

次に「カキエ」という手をくっつけあった状態で攻防を練る練習に移りましたが、ここで私が一方的に先輩を押さえ込んでいるのを師範に見つかり、怒られました。確かにこのときの私には「お返し」の意識があったと思いますが、やり過ぎでした。師範も異変に気づかれたのか、以後、たまに練習に出て来る彼とは一切組まされなくなってしまったのです。毎年、卒業生を追い出す組手イベントをやるのですが、先輩とは組手をさせてもらえませんでした。

それでも、当時は本当に嫌だった先輩に練習の形でお返しできたことに満足していました。あくまで「当時」はです。

このような理不尽な暴力やイジメには必ず因果応報があります。私を暴力で傷つけたY先輩も、逆に私の浅はかな報復行動で相応に傷ついたことと思います。 また、私たちの話は「若気のいたり」で済みましたが、運が悪ければお互いの行動は相手の生命を脅かしていた可能性もあり、この場合は一生後悔してもしきれない罪の意識を負ったことでしょう。

もうおわかりかと思いますが、Y先輩だけが悪いのではなく、その行動を助長するような環境を作っていた周囲の人々にも責任があります。もちろん、そこには「お返し」で満足していた狭小な自分も含まれていることはいうまでもありません。

残念なことですが、私は当時の同級生を除いて、当時所属していた空手コミュニティとは交流はありません。私たちの師範や先輩方への接し方に失礼があったことについて、卒業間近にY先輩と電話口で言い争いになったことがありました。このことで、少なくとも私自身については、縦社会の中で一度でも先輩に楯突いた者は許されない、と思いましたし、空手コミュニティにも信頼を置けなくなっていました。お世話になった師範にも先輩にもご挨拶しないまま、鹿児島を離れました。

高校3年間、私にとっては空手がすべてでした。それがこのような終わり方をしたことには一抹の寂しさを覚えます。でも、あのまま増大していく恨みや憎しみに耐えたり、爆発させたりしなくて済んだことを考えれば、お互いに良かったのかもしれません。

この章の最後は、卒業から10年後の話で締めくくりたいと思います。私がちょうど結婚したころ、Y先輩から一度だけ電話をいただいたことがありました。

空手道部時代のご自身の行動に対する反省の言葉もありましたし、また、少しブランクのある空手コミュニティに復帰して、道場生の子供たちに空手を教えていたりとかもしているという報告もいただきました。当時はまだ、師範もお元気のようでした。

これで、人としてのわだかまりは解けたと思っています。