2週間という短期間の出来事だったのですが、今の私に最大級の影響を与えた経験でしたので、ここで振り返ってみます。
1989年、私が渋谷のスポーツクラブでフィットネス・インストラクターをしていたときのことです。大変幸運なことに、その秋、所属会社より海外研修の参加スタッフに選んでいただき、オレゴン州立大学で短期の講義を受けられることになりました。
当時、日本のフィットネス・リーダーの方々が参加されていた研修ツアーで、私は参加者の中で最年少だったと記憶しています。
オレゴン州立大学では、大学の寮に宿泊しました。ツアーの期間は学生さんが秋休みで、寮に空きがあるのです。食事は寮に備え付けられたレストランを利用することになっていて、朝はスクランブルエッグにベーコン、と毎日同じメニューが出ていたのを覚えています。参加者のみなさんは、すぐに日本食が恋しいとおっしゃっていましたが、私は同じものを続けて食べられるほうで、どちらかというとこの朝食メニューを気に入っていました。
同室の方がボディビルダーかつフルコンタクト系の空手選手だった方で、何歳か年上の業界の先輩でした。空手のほうは、パワーがあるだけでなく一つ一つの技がすばらしく完成されていたのを覚えています。2週間もご一緒させていただいたので、フルコンタクトルールの空手のこともいろいろと教えていただきました。このとき教えていただいた、ローキックのカットの仕方や、連続したリズミカルなキックの仕方はその後の私の成長に大きく役立ちました。
また、大学の講師の方に現地の空手のチャンピオンシップを取った人がいました。この方は身長が190cm近くあったと記憶しています。大会で詠春拳の選手と対戦して制したことがある、とのことでした。そのときの写真を見せていただきましたが、その詠春拳の選手は膀手(Bong sao)という技術を使い、講師の左順突きを躱そうとしている瞬間が捉えられていました。講師によれば、そのまま自分のパンチが詠春拳の選手に当たってしまい、倒してしまったそうで…。
その詠春拳の選手は完全に横を向いており、膀手が全然役割を果たしていないことは明らかでした。全く技術体系が異なる大会のルールに合わせるのは難しいことですが、当時詠春拳をメインに練習していた私は若干の悔しさを覚えたものです。
そこで、寮の駐車場で、この講師とスパーリングをしようということになりました。
いざ、お互いに向かい合ってみると、やはりかみ合わないというか、警戒しているのか、お互いに手が出ません。結局、1分ほどでどちらからともなく「止めよう」ということになりました。今思えばそれで正解。私も仕事で滞在しているわけですし、アメリカ内では旅行者の1人です。講師の先生も私たちを預かる責任があり、何かあったら問題になったでしょう。
この講師の先生とは、最後にお互いに持っていた書籍を交換した記憶があります。何をいただいたか記憶しておらず申し訳ないのですが、私は”Bruce Lee’s Fighting Method”を一冊、お譲りした記憶があります。懐かしいなあ。
オレゴン州立大学の生活では、授業が終わると毎晩、私は夜に駐車場に出て詠春拳や空手の練習をしていました。ランニングも毎日行い、空港からの移動で寄ったショッピングモールまで走ったりもしていましたね。北の方なので、21時頃までは明るかったのです。ただ、寮に戻るころには暗くなったりもしていました。
「ここはアメリカで、オレゴン州コルバリス市は治安がいいとはいえ、銃器の所持も認められていて、日本とは違うということを認識してほしい」
ということを言われました。身長170cm、体重60kgの小柄な日本人が、シャドウボクシングやキッキングのようなことをしながら、単独で夜間のランニングをしていたわけです。今思えば、一度も問題に巻き込まれずに良かったかも。特に大学の構内とかは、犯罪率が高いそうなので。
でも、この研修に参加したころはすでに渋谷から大阪に転勤になっており、当時の印象としては住んでいた区域よりずっと治安がいい印象を受けたのですよ。「詠春拳との出逢い」にも少し書きましたけど、コルバリス市はもっと閑静な感じで、大学のキャンパスも日本の大学よりきれいなくらいでした。大学の敷地面積も広くてアメリカのスケールの大きさに驚いた次第です。
私は近所のコンビニに1人でよく出かけていたのですが、入口周辺に高校生がたむろしているのはアメリカも同じことのようでした。違うのは、彼の地の高校生たちは体つきが一回り大きく、「マッドマックス」や「北斗の拳」の世界からそのまま出てきたような連中ばかりだったということです。チョッパーなバイクに乗り、肩などに棘がついたコスチュームという出で立ちの集団をみると「治安が悪そうな」印象を受けますけど、彼らに「Hi!」って声をかけると、向こうからも笑顔で返事が返ってくるんですよ。
こんな感じだし、何かあっても簡単にはやられないだろうという自信も手伝って、平気で人前でも、夜中でも武道の練習をしていたわけです。
今だからいえますが、大学の駐車場の街灯をローキックで軽く蹴っていたときのこと。勢い余ってこの街灯の鉄柱を強打してしまい、壊して消灯させてしまったことがあります。あの頃は私のスネのほうが強かったようです。どこからともなく、「Hay〜!」と聞こえてきたので、誰かに練習を見られていたんですね。速やかに逃げて、翌日から練習場所を変えたのでした。
当時の私は、ブルース・リーに心酔していて、「私も将来は彼のようにアメリカで道場を…」なんて考えていました。それもあって、周りの反応を見たくて外での練習をしていた部分もあったわけですが、コルバリス市が平和なせいか、誰も武術に興味を持っていない印象がありました。
でも、コルバリス市の出来事だったか、最後にポートランドに移ってからの話だったか、記憶が曖昧ですが、ジムでサンドバッグを蹴っていたり、親指、人差し指での片手腕立て伏せをしていたとき、40代くらいの女性に話しかけられたことがあります。「あなたは、武術家なのか。道場はあるのか。教えてくれないか。」という話でした。
私は旅行者に過ぎませんし、帰国の日も決まっているのでお断りせざるを得ませんでしたが、「近いうちにここに戻ってきますよ」と生意気な返答はしていました。結局、それから一度も戻っていませんけど…。このときはアメリカの広さや多様性に心酔していて、将来はこの地に住みたいと本気で考えていたのは間違いありません。
こういった、武道がらみの経験のほか、現地ではいろいろと楽しく過ごすことができました。例えば、この研修旅行でオレゴン州に滞在しているときに24歳の誕生日を迎えたのですが、研修参加者の中に現地の人と仲良くなっている人がいて、その人の家で誕生祝いをしてくださったのです。ケーキのクリームは砂糖の粒子が分かるほどジャリジャリしていて甘かったという印象が強烈に残っており、今までで一番記憶に残る誕生祝いでした。
また、現地に留学されている日本人のおねえさんが通訳でいたり、私たちの世話係をしてくれた同い年の住民の女性と仲良くなったり、楽しいことがたくさんありました。彼女らと肩を組んで撮影した写真が残っていたりして、当時の自分がうらやましい限りですね。
週末には、郊外のスキー場のほうに出かけて、モーテルに泊まりました。移動の途中、地平線を見ていて「大陸」というもののすごさを実感したのを覚えています。そして、強烈なインパクトがあったのが、モーテルの部屋ですね。
「コマンドー」という映画に出て来る、サリーがクックと落ち合うはずだったモーテルに似た、アメリカ映画によく出て来るような宿泊施設です(分からないか…)。部屋自体は寮の部屋よりずっときれいでしたが、何を思ったのか私はシーツをめくってみました。するとですよ。ベットサイドには激しく飛び散った血しぶきのあとが…。カーペットには痕跡も何もなかったのに。
ちなみに、この施設ではお化けはでませんでした。そのかわり、一度授業中に、目の前にソフトクリームをなめながらこっちを見ている外国人の幼児が出現したことはありましたね。リアルだったので、「なんでここに子供が」と驚いたら、すぐに消えました。全然怖くはなかったけど。今でもその子の顔はなんとなく覚えていますよ。
オレゴン州立大学でのカリキュラムを終えた最後の週末はポートランドで過ごしました。
ポートランドは、裏通りにいくと、コルバリス市とは打って変わって治安が悪かったです。アングラの、目の下が真っ黒なセールスマンが、「これ買って」と変な薬を売り込んできたり、ギャングのような集団に身構えたり。でも、こうやって写真で見直すと、きれいな町並みですよね。
これでも、当時のシアトルと比べると全然治安がいい、という話を研修の団長さんがお話されていました。そんなシアトルで道場を経営していたブルース・リーの実力の高さがしのばれます。確かに、彼の道場生には、保護観察中の軍隊上がりの人とか、町のギャングみたいな人も含まれていました。今思えば、とても私がやっていけるような土地柄ではないですよ。
最後はハワイで。
1日目は賑やかだったホノルル市の繁華街も、2日目は閑散とした上、パトカーが走り回っていました。なんかあったみたいですね。研修団長さんがおっしゃっていた「ハワイとは言え、ここはアメリカですよ」と言っていたのを思い出しました。
このころは軽々と空中に浮かんでいる私ですが、今の私は「空中殺法」の練習はほとんどしません。でも、今の年齢でこれができたらカッコイイかなあ…と練習カリキュラムを見直し中だったりします。