極真空手の存在感

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運動指導者としてのキャリアのスタート

1986年の夏、直接的にフィットネスに関わる仕事を体験したくなり、前にいたスポーツクラブから同じ新宿にある別のスポーツクラブに移籍しました。移籍先となったのは、もっと大衆寄りのクラブで、全国チェーンを展開していました。メンバーの平均年齢がとても低く、また場所柄と価格帯によるものか、国際色豊かだった記憶がありますね。

このスポーツクラブで、私は念願の、運動指導者としてのキャリアをスタートさせることになります。

このクラブで、極真空手関係の、おふたりと知り合うことになります。

お一人目はクラブを経営していた会社の社員であるAさん。知り合った当時はすでに道場には通われていませんでしたが、過去に極真会館の本部道場で練習されていた方です。

もう一人は会員の方で、Fさんという当時現役の全日本選手です。私がこのクラブに移籍する直前まで、Fさんもインストラクターとして勤務されていたことで親しくなりました。

おふたりとも私より2-3歳年長でしたが、本当に私に良くしてくださいました。

たくさん資料提供をしてくださったAさんとの交流

Aさんはほぼ毎日のように一緒に仕事をしていたことで、業務の前後によく組手をしていただきました。ご自宅にもよくお邪魔しましたね。Aさんは「鬼の黒崎」健時先生の著書の影響を受け、真冬に部屋の窓を全開で就寝し、凍死しかけたこともあるそうです。また、部屋には血まみれの縄でぐるぐる巻きにしたサンドバッグが置いてあり、少なくとも一時期、Aさんには空手に入れ込んだ時期があったのだろうと思われます。

私が一番驚いたのは、Aさんが1960年代からブルース・リーの存在を認知していた、ということです。日本で放送された「グリーン・ホーネット」を見て、幼児だったAさんはリーさん扮する「カトー」のものまねをして家族を楽しませていたとか。日本でブルース・リーが有名になったのは1973年暮れの「燃えよドラゴン」公開後、つまり死後のことですから、彼を生前から知るAさんはなかなか稀少な存在だったのでは。

そのなじみからか、Aさんは極真空手を始める前はブルース・リー・ファンだったそうです。そのおかげで、私はAさんからブルース・リー・コレクションのお裾分けを多数いただくことができたのです。

コレクションは映画雑誌からの切り抜きが多く、1980年代半ばの当時でも入手困難なものがほとんどでした。そのほか、Aさんはミニカードやパラパラ方式の小冊子など、貴重なものも惜しげなく私にくださいました。これらの宝物は、今でも私の自宅に保管されています。

これらのいただき物の中でも、私が特に大事にしているのがこれです。

悲劇の死 ブルース・リー

これは本当に貴重な本で、大抵の古本が見つかるamazonさんにも掲載すらされていません。ブルース・リー本人が亡くなって間もない頃に書かれた手記ですので、後年出たあらゆる書籍と比べても資料価値が高いのは間違いありません。ブルース・リーの人となりが克明に書かれた良本といえます。普段読み用にも欲しくて、復刊系サービスのサイトに登録して何度も推していますけど、未だに実現していないのが残念なところ。

そして、このAさんにいただいたもう2つの貴重な資料がこちら。

極真空手の通信教育テキスト
写真が大きく明瞭で分かりやすい

一つ目は「マス大山カラテスクール」のテキスト。Aさんは本部道場に通っていたそうですが、それ以前にはこの教材で練習していたのかもしれません。私が中学時代に申し込んだ形意拳〜太極拳〜八卦掌のテキストと比べてはるかに出来がいいと思いました。もちろん、実際にいろいろと習った後では、この資料だけで技が身につくとはほとんど思えませんけど、貴重な資料です。

そしてもう一つ。

キック&マーシャルアーツ
分解写真が多く分かりやすい

キック&マーシャルアーツのテキストです。以前、通信教育の資料請求をした際、主催者であるジムの会長さんから直々のお手紙をいただいたエピソードを書きましたが、その通信教育用の教材になります。

いただいた当時はインターネットもWWWも普及しておらず、ビデオテープの教材すら少ない時代でしたので、キックボクシングの技術解説書は本当に貴重な存在でした。しかもこの教材、分解写真が細かくてイメージしやすい出来だったこと、以前のスポーツクラブでキックボクサーと技を交換した経験などから、資料として非常に役立ちました。Aさん、元気にされていますかね〜。

詠春拳を学ぶきっかけになったFさんとの交流

お話変わって、このクラブで知り合った、極真空手の選手をされていたFさんについても触れておきます。この方は私がこの後、詠春拳を始める直接のきっかけになった方なのです。

Fさんは前年まではクラブのスタッフだったということで、本当にいろいろとお世話になりました。極真会館の第17回、第18回全日本大会を前列で観戦できたのも、この方に連れて行っていただいたおかげです。前回の投稿で七戸選手のウォームアップを見た印象を述べましたけど、この17回か18回のときの出来事でした。これらの大会では、優勝された松井章圭先生、決勝で闘ったライバルの増田章先生(18回)、黒澤浩樹先生(17回)のすごさを生で拝見することができ、光栄でした。

このFさんも、3回ほど業務後に組手に付き合っていただきました。1回目は圧倒されて私は何も出来ませんでした。2回目はポイント制時代に培ったフットワークを利用してみたことで一度も捕まりませんでしたが、3回目ではそのフットワークにも対応され、あっという間に詰められて何回もひっくり返されました。

組手と言ってもあくまでマス・スパーリング形式で、1回目も3回目も「試合」のような感覚で蹴られていたら、1分以内にローキックで倒されていたでしょう。軽く蹴ってもものすごい威力を感じましたから。Fさんは全日本大会の3回戦くらいまで行かれていたと記憶していますが、次元の違いを感じた出来事でした。

Fさんには、「蹴りはいいけど、パンチ力が足りないね。もっと体ごと打つ練習をしたほうがいい」とアドバイスをいただきました(これは、先に紹介したAさんにも指摘されたことでした)。

もちろん、Fさんと私では相当な体格差もあったと思います。当時、私の体重が58kg-61kg程度なのに対し、Fさんが70kg台後半だったと記憶しています。体重を増やしたらもう少しいい勝負ができるかな、と思ったりもしましたが、太りにくい私の場合、あと20kg前後体重を増やすことは難しく感じられました。また、私の場合はもともと運動神経が劣っていることもあり、20kgも増やしたらそもそも今の動きができなくなるんじゃないかとも思われました。

この当時はかなり練習していたことがあり、これだけ練習していてもダメなのかという思いに挫折しそうになってしまいました。今の私なら「こんなことで悩むくらいなら、ダメ元で極真空手を習いに行け!」とアドバイスしたところですが、当時の私は一方的に極真空手をライバル視していたような状況があって、今の私の言葉なんか届かなかったでしょうが。

そんなときにふと思いだしたのが、ブルース・リーのこと。彼は小柄な体格ながら、1960年代にアメリカで道場を経営していました。

彼のアメリカ時代の写真を見ると、体重60kgそこそこなのに、ずっと体格のよい生徒さんたちを相手に武術を教えていました。詳細は控えますが、シアトル時代の生徒さんにはエネルギーを持てあます「町の不良」も多かったと聞きますし(香港時代のブルース・リー自身が超不良少年でした)、弟子の中には軍のボクシングチャンピオンも、柔道の有段者もいました。「ブルース・リー伝」によれば、前者は保護観察中だったそうです。

シアトル時代にはUCLA運動場の屋上で、ブルース・リーが日本空手道の「ウエチ(※)」さんを11秒でKOしてしまった逸話も多くの人に目撃されています。この試合のタイムキーパーを担当したエド・ハートさんによれば、「ウエチ」さんはブルース・リーよりかなり体格が良かったそうです。なのに、ブルース・リーの直拳(ストレートパンチ)の連打による猛攻の前に、相手の両手は無力に空振りするだけだったと言います。圧倒的な差にマズイ結果になると直感した弟子たちが止める入るも間に合わず、意識を失い膝から落ちた空手家の顔面にトドメの蹴りを入れてしまったリー先生。これにはエド・ハートさんも思わず「ひどい!」と言ってしまったそう。ストップウォッチを見ると、ここまでが11秒だったそうですが、実質はもっと短時間に決着していたようですね。それにしても、「ワル(失礼!)」の集まりにすら「ひどい!」と思われるブルース・リーって…。

(※ 「ブルース・リー伝」によれば、「ナカチ・ヨウイチ」さんとされています。また、他の類書では「ユウイチ」という表記があったりもして、正確なお名前は分かりません。)

彼は截拳道(JEET KUNE DO)という武術を創始したことで知られていますけど、20代半ばまでは、香港で習ったという「詠春拳」という武術をベースに身を立てていました。上記のエピソードも詠春拳を使っていたはずで、私の頭の中では、大学1年のときに資料で初めて触れた「詠春拳」の存在が大きく頭の中に広がり始めていました。小さな体格の人でも、大きな体格の人をコントロールできるのでは、という期待が膨らんだのです。

Fさんから伺った大山倍達総裁のエピソード・他

この記事を書いていて、全日本に出られるくらいの実力者だったFさんからいろいろと伺った話を思い出しました。大山先生の知られざるエピソードや、関連するお話など、本当かどうかはみなさんの判断におまかせするとして、紹介してみますね。

  • 本部道場入口の階段の上で昇段試験を見学していると、後ろから両肩をつかんで体重70kg半ばの自分を宙に持ち上げ、「よっこいしょ」と移動させた人がいた。それが大山総裁ご本人だった。
  • このとき、大山総裁が背後に立ったことに全く気づかなかった。大山先生は歩くときに足音を立てなかったので、階段を登ってこられるのも分からなかった。
  • 「空手バカ一代」のエピソードの真偽は不明だが、少なくとも10円玉曲げは本当。人差し指、中指、親指の3本で曲げていた。(法的には問題ありますが、すごいことですね)
  • 「空手バカ一代」の李青鵬が実在したとは思っていないが、総裁のアルバムを拝見したときに、李青鵬とうり二つの人の顔写真があった。もちろん、李青鵬という名前ではなかったし、その人が李青鵬のモデルになったかどうかは分からない。
  • 1985年頃の話。大山総裁がオーストラリアでTV出演した際に、「空手は最強」と主張したところ、オーストラリア人のアメフト選手かプロレスラー(私の記憶が不明確)が「聞き捨てならぬ」と挑戦してきた。当時60代の大山総裁は受けて立ち、スタジオで対峙した。飛びかかってきた大男を大山総裁は正拳の一撃で5〜6メートル吹っ飛ばし、壁に叩きつけた。大山総裁がそれを助け起こそうと手を差し伸べたところ、興奮した挑戦者に腕を強く引っ張り、パンチを繰り出してきた。大山総裁は慌てることなく体をいなし、挑戦者に裏拳を叩きつけた。挑戦者は今度は完全にのびてしまった。
  • (総裁と闘ったとして勝てる自信はあるか、と質問してみると)とんでもない。勝てない。
  • (第4回世界大会で日本は王座を守れるか、という問いに対し)松井章圭選手が昨年(1986年)の何倍も強くなっており、七戸選手なども育ってきているので、日本が勝つだろう。→その通りになりました。
  • 「空手バカ一代」に紹介されている有明省吾さんは、実在しない。モデルとなった人物はいるが、マンガのように最初の弟子、というわけでもなかった(モデルとなった人物について、Fさんからいろいろと伺っていますが、事実関係などもよく分からないことですし、センシティブな内容も含まれていたので割愛します)。
  • 大山総裁ご本人は正直な人。著書などで腕立て伏せ1,000回を続けてやったなどの記載があるが、本人によれば実際には出来なかったそうだ。理由は、途中でお腹が空いて…とのこと。800回くらいが最高だったそうだ。
  • 東京体育館だか代々木体育館だか(私の記憶が不明確)に練習に行ったとき、1人で中国武術の練習をしている人がいた。よく見ると有名な松田隆智先生で、先生が壁に掌打したときに、体育館が「ぐらっ」と揺れたような気がした。単に地震が重なっていただけかもしれないが、印象的な出来事だった。
  • ブルース・リーはおそらく本当に強いと思う。あのスピードはすごい。経験上、スピードがある人間は強いことを知っているが、あの次元のスピードは未体験。

組み討ち格闘技との交流

そういえばこのころ、アルバイトの同期に格闘技好きがいました。高校時代にアマレスで関東大会の上位にいったとかで、そのころはシューティングの練習を始めていたのかな。お互いに意気投合し、私が前に勤務していたスポーツクラブからインビテーションカードをもらって、T先生に柔法を習っていたあのジムでスパーリングしてみることにしました。

最初は組み討ちルールで。私は中高の体育の時間で習った柔道と、例のT先生直伝の柔法しか知りません。その技で対応してみろ、というのでやってみたわけですが。

まず、簡単にタックルで倒されました。その頃アマレスのルールも分かっていなかった私ですが、たぶん倒してからはシューティングの技術ですかね。あらゆる角度から、あらゆる関節を取ってきました。私は全く逃れることも起き上がることもできず、もがくしかありませんでした。ただ、関節技については、T先生の柔法のようには完全に決まることはありませんでした。腕十時も何度もかけられた記憶がありますが、私の力が強くて、決めることができなかったそうです。アマレス以外はまだ、彼も未熟だったようですね。それでも、ポイントはずれていたとは言え、アキレス腱のサイドの部分にはしばらく痛みが残りました。

倒されて寝技になってしまうと何もできない。立ち技しかやったことがない私には衝撃的な経験でした。極真空手の大山総裁が、つかみが必要な組技より、離れたところから素早く攻撃できる空手は有利、とおっしゃっていたのを信じていた私ですが、正直揺らぎました。かといって、そのための練習はほとんどしていないので、今でも組み討ちスパーリングをしたらきっと同じ結果になってしまうと思います。

次に立ち技ルール。彼がフェイントのあと、思いきりミドルキックを放ってきたのでスネ受けしたら、一発で彼が立てなくなってしまいました。少し時間をおいて再開したものの、最初のスネ受けの印象が強かったのか、彼のキックが寸前で止まるようになってしまって、続かなくなったのを覚えています。

この彼とはその後も蹴りだけのスパーリングを行ったりしたことがあり、私の蹴りの影響でテコンドーをはじめた、と言っていました。その後、彼のテコンドーを見る機会を楽しみにしていたのですが、実現していません。元気かなあ。

そう。私は蹴り技がとても得意でした。

スポーツクラブの従業員に、テコンドー関係者と知り合いの人がいて、「ソウルオリンピックでテコンドーが採用されるので、強化練習試合に参加してみないか」というような誘いを受けたことがあります。そのころは、次の記事で紹介する詠春拳を習い始めていて、競技への興味はかなり失われていました。なんというチャンスを逃したのか…と今でも思います。まあ、オリンピックを狙うような人たちの間に入ってしまったら、ひとたまりもなかったんじゃないかとは思いますがね(でも、選手層の薄いあの当時であれば可能性があったかも、とはこっそり思い続けています)。

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