三島

生まれて初めて実家を離れ、静岡県三島市にある日本大学三島へ所属することになりました。1984年4月、18歳のときのことです。

生まれて初めて実家を離れ、静岡県三島市にある日本大学三島へ所属することになりました。1984年4月、18歳のときのことです。

三島校舎で過ごすのは最初の1年だけであり、以降は東京都世田谷区の文理学部に移動予定となっていたので、三島での部活動やサークル活動は行いにくい状況でした。当時の私は競技としての空手に少し幻滅していたこともあったし、正直なことをいうと、ふたたび最下級生に戻って空手道部に所属する、ということに抵抗があったと思います。それに、東京に移動したときも流派が変わってまたイチから…? 今になって思えば、それを乗りこえた人が強くなっているのでしょうけど、当時の私には分かりませんでした。

本気で技を増やしたいと思ったら、少林寺拳法部や柔道部に入って今まで知らなかった技を習うこともできました。空手競技に不満があったのなら、防具の上からフルコンタクトする日本拳法だってありました(高校時代に私が憧れた猪狩元秀先生は日本大学の日本拳法部出身でした)。視野が狭くて、周りが見えていなかったのですね。

こんな状況でしたので、基本的に1人でトレーニング、練習を続けることになりました。他人から強制されるのではなく、自分で決めて行う練習ということもあり、振り返ってみれば大学1年のこの期間が人生で一番練習をした時期かもしれません。この1年間住んだのが賄い付きの下宿で、授業以外の時間帯は自由時間が多かったことにもよると思います。平均的には次のような練習でした。

  • 授業の合間、昼休みは屋上につながる踊り場で自主トレや武道部との技交換
  • 帰宅後は20-30分のランニング
  • 腕立て、腹筋、スクワットを各300本(これはのちに三島体育館の施設でのウエイト・トレーニングに切り替え)
  • 近所の小学校の庭で基本練習・シャドウトレーニング・ときどき有志とのマス・スパーリング
  • 私の技を習いたいといった同級生への指導

高校時代とのカリキュラムの大きな違いのひとつは、ウエイト・トレーニングです。これまでも、アポロエクササイザーを使ったり、自宅にベンチとバーベルを購入してトレーニングをしてはいましたが、もう一歩踏み込むために、三島体育館のジムへ通うことにしました。初回オリエンテーションを受けて、インストラクターに習った通りにカリキュラムを進めることで、体重が57kgから62kgへの増量に成功しました。これまでどうしても58kgを超えることが難しかった体重が、3ヶ月程度で改善され、見た目も大きく変わったのは衝撃的な体験でしたね。これが私の社会人キャリアを「運動指導者」からスタートさせるきっかけになったと思っています。

また、もう一つの違いは同級生へ技術を教える体験をしたことでしょうか。といっても、私にはカリキュラムも何もなく、また今までは上級者、同等の者と練習することが多かった中、全く初心者の同級生(友だち)に教えるという話です。私にとってはある意味便利な「練習台」というところもあったかもしれません。同級生には申し訳ないことをしました。

この時期、武道部のみなさんとも交流を持ったりしました。当時の私は、今の私からみても本当に嫌なやつだったと思いますが、少林寺拳法部のSくんなんかがよく私の練習に付き合ってくれたり、マススパーリングの相手を務めてくれたりしました。後に東京で再会したときにはものすごく強くなっていて、以前のように勝つことができなかったことは覚えています。やはり1人で練習するのと、他の先輩、ライバル、後輩に揉まれて練習するのとでは差が出るんですね。

また、一度高校のボクシング部に所属していた同級生ともマス・スパーリングをしたことがありました。上半身だけに限って技を交換したのですが、空手とリズムが全く異なり、また打ち方も全く違っていたので、いいようにお腹を打たれたのを思い出します。顔は打たれませんでしたが、彼はたぶん、顔を打つと危ないので避けてくれたのだと思います。ボディへのストレートなど、私の想像以上に伸びてきて、防御が難しかったですね。思ったよりやわらかく、各技のつながりがスムースな印象を受けました。

あと、印象に残っているのが少林寺拳法の高段者の方のアドバイスを受けられたことです。近隣の暗くなった小学校で自主トレをしていたとき、40代くらいの引き締まった体をされた方がやってきて、私の蹴りを褒めてくださいました。伺うと、詳しい段位は忘れましたが少林寺拳法の高段者の方でした。これほど足が変幻自在に使える人は見たことがないという、なんとも恐縮するようなお言葉だったのですが、反面、次のような指摘も。

「重心が少し後ろすぎるかな。もちろんそれが今の蹴り技につながっている部分はあるけど、実際、闘うときの距離は常に変わるし、必ずしも打撃だけで闘うわけではないから、常に重心を後ろに置くのは一考した方がいい。」

とのことでした。その場で、重心位置を少しずつ矯正しながら見ていただきましたが、このときの体験は未だに私の中に生きていて、本当に感謝している次第です。

蹴りの話が出ましたが、当時の私は足技は得意だったものの、手技に難点がありました。なので、大学進学と同時にこんなものも申し込んでいるんですよ。

ブルース・リー 詠春拳・ヌンチャク技法講座

中学時代に申し込んだ中国武術と同じ会社が出していた通信教育プログラムですね(苦笑)。ブルース・リーの初期の弟子、James Yim Lee先生が著者となっています。

このころは、この講座が通信教育の体裁は採っているものの、きっと指導者もいないだろうし、カリキュラムもないに等しいだろうと予測はしていました。試しに一度、質問券を使って「黐手って、全く実用につながるイメージがないけど、どういう意味があるの?」というようなことを書いて送ってみたことがあります。すると「黐手(とりもちて=この講座での呼び方)とは、相手の手にとりもちのように粘り着く技です。」みたいな、テキストに書いてある回答が来ました(笑)。貴重な質問券をくだらないことに使ってしまったではないか(苦笑)。

テキスト類

ただ、もともと通信教育としての期待が高いわけではなくて、全冊に日本語訳がついているのが私にとってはありがたかったのです。今見直してみると、日本語テキスト全冊に赤線や書き込みがあり、すべてを細かく研究していたことが分かります。木人の上半身部分を自作して、下宿の柱に勝手に取り付けたりしていたのも覚えていますよ。

この通信教育会社は「ブルース・リー截拳道講座」なるものも同時に提供していましたが、私は截拳道よりもその基礎になった詠春拳を先に研究するのが筋だと思って、詠春拳のほうを選んだと記憶しています。

この詠春拳講座のテキストにはなぜかヌンチャク講座も含まれていました。教材にはヌンチャクの実物もついていて、今思えば過去に使った中でも一番使いやすいヌンチャクでした。ハッキリ思い出せないのですが、この年、もしくは翌年の帰省の途中で四国学院大学に通学中の同級生を訪ね、同大学の少林寺拳法部の方と芦原会館の生徒さんと交流したことがありました。このとき、少林寺拳法部のキャプテンの方へ敬意を表して、このヌンチャクをプレゼントしたと記憶しています。

また、四国学院大学の少林寺拳法部員の中にブルース・リー・ファンがいて、この方に前述した「ブルース・リー截拳道講座」の中身を見せていただきました。

寸勁

見せていただいた資料の中で一番衝撃を受けたのが、この寸勁の写真でした。ブルース・リーには「ワンインチ・パンチ」という、3センチ程度の距離から相手をついて吹き飛ばす技術ができたことは知っていましたが、初めて写真で確認したものですから。思ったより吹っ飛んでいる。

その後、テレビ番組の「知ってるつもり」で公開された映像を確認したところ、この写真が紹介しているものは寸勁ではなく、実は尺勁(シックスインチ・パンチ)であることが分かりました。それでも、今では違う角度の映像もYouTubeなどで見られるようになっており、他にもいくつか映像が残っている寸勁のほうも非常に強い打撃であったことが確認できています。

さて、これらの通信講座ですが、元となった香港雑誌はアメリカで発行されたOHARA PUBLICATIONSの書籍をベースに編集したもののようです。「詠春拳講座」のほうが”WING CHUN KUNG-FU”、「截拳道講座」のほうが”Bruce Lee’s Fighting Method 1-4″がコピーされていますが、ブルース・リーの弟子が死後に出版した書籍などからの引用も多いです。

OHARA PUBLICATIONS BOOKS

私は截拳道講座のほうも後になって古本屋で購入しました。たぶん、私の場合はOHARA PUBLICATIONSの正規版のほうを先に買っています。上の写真は1冊にまとめられた新しい版ですが、4冊の分冊版も2セット持っています。うち1冊は、アメリカを訪れた際に、オレゴン州立大学の講師にプレゼントした記憶がありますね。この4冊の分冊版は後ほどフォレスト出版で日本語化されました。このフォレスト版の訳者は武道家でしたし、英文 → 中国文 → 日文と訳を経ている通信教育版より当然ながら精度が高いです。日本語版が出るまでに、私自身でほとんどの翻訳を終えていたので、截拳道講座の方の日本語訳はほとんど読んでいないです。

そして秋、ついに日本でも初めてといっていい、詠春拳の技術資料が公開されました。「武術」誌が1984年秋より3号に渡って紹介したものです。

当時の日本ではまだ映画「少林寺」の影響が強く残っていて、上の写真のような派手な動きのある武術や、あるいは「神秘的な」技術の人気が高くて、詠春拳のような「地味な」武術は人気がなかったのでしょう。ブルース・リー武術の基礎とまで言われているにもかかわらず、扱いは小さかったですね。

下宿のとなりが書店だったこともあって、私はすぐに最初の号を購入して隅から隅まで読みました。特に感じたのは次の2点。

  • 実用例が少ない。上げられた例は動きとしては分かりやすいが、少なくとも空手やボクシングに適用するには危なくて非実用的。
  • 一つ一つの技の動作が遅い。例えば、攤手、伏手、沈手は一動作5分かけて練習するという。

実例については、冬号、春号については少ないながらも、実用的な例が含まれていたことを補足しておきます。一つ一つの練習に時間をかける理由については、その後段階的に分かってきました。2分程度の動きでは、どうも本当に動作に必要な筋肉の存在を明確化できないのです。これについてはまた改めて、私の気づきを紹介する中で書いていきたいと思います。

この1年で、詠春拳の資料に並んで得た貴重な資料があります。

私のボクシング (1953年) (講談社スポーツ叢書)

といっても、これに関しては得意の「写本」です。日大三島校舎の図書館に置いてあるのを見つけ、期日いっぱいまで借りて写本したものです。

私のボクシング・写本

この原本、古本屋を漁ったものの現在まで見つけることができておりません。1953年出版で、価格も上がってしまっているようです。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2462747

国立国会図書館にはあるのかもしれませんが、英語版の原著は今でも継続販売されているのでそちらを入手しています。

CHAMPIONSHIP FIGHTING EXPLOSIVE PUNCHING AGGRESSIVE DEFENSE by JACK DEMPSEY

懐かしいので、少し中身比べをしてみましょう。

原著
写本
原著
写本
原著
写本
原著
写本

まだ、ペン習字を始める以前の字で書かれているので、今の自分の字と全く変わってしまっているのが自分の中で新鮮だったりしますが…。紹介した原著は、今のボクシング関連書籍にはあまり見られない、パンチのサイエンス、力の生み方とその理論が非常に詳細に書かれています。まるで、ちょっと真面目な中国武術の書籍のような感じですね。

ご興味のある方はぜひ、原著を買ってみてください。

でも、三島での生活はいろいろと楽しかったな。近所の中古屋さんで古書や怪しいものをいろいろ買ったり、女の子にメッセージ性の強いアルバムのカセットテープをプレゼントしてもらっても気づかなかったり。その彼女は私の帰省中に鹿児島に遊びに来てくれたりもしたのに、今思えば武道どころじゃなかったはずなのでは…と思ったり(苦笑)。

また、アルバイトでいくつかの思い出があります。三島でもいくつかの単発アルバイトを体験しましたが、納得がいかないことがあるとぶんむくれたりして生意気だったなあ…と思います。

時代劇の劇団さんのアルバイトをしたときに、すごいクレーマーみたいな年長者と一緒になって、「人のふり見て我がふり直せ」なんて思ったことがありました。劇団の人たちがみんないい方ばかりだったので、本当に悪いことをしてしまった気がして。

同じ下宿の同級生と清掃のアルバイトで病院に行ったときは、帰ったあとに2人とも夕寝して、2人して同じ現象の金縛りに遭ってしまったといった、怖いことも。背中を刺されたような痛みが金縛りの最中に感じられた、というんですよね。お互いに。金縛りで鋭い痛みを感じた経験など、今までなかったのに。

そんなアルバイト生活の中で、リアルに覚えているのは映画「乱」のロケです。

富士山麓に向かって、日大の学生一同、最初は意気揚々と出発したものの、寒さ、鎧兜の重さ、徒歩での移動距離などで、ロケが終わるころにはほとんどいなくなっていました。私は体力だけは自信があったので、お城が燃やされてしまうまで、欠かさず行きました。お城が燃やされた回のロケに参加した後、高熱を出して数日寝込みましたが。

そんな人不足もあって、一度鉄砲隊に移ったことがありました。要領を得ない私は列をなしての突撃の最中に頭の上の笠を飛ばしてしまったことがありました。鉄砲隊長に「1シーンの撮影がどれだけ大変だと思ってんだ、馬鹿野郎!」みたいに怒鳴られ、このときもすねていたのですが、騒動に気づいた黒澤明監督が「いいよ。撮り直せば。なにより、指導をきちんとしていなかった隊長に責任があるんだよ」、というような主旨の言葉をひとこと。笠の固定をしっかりしての再撮影でOK。撮影後に隊長からも謝られ、すねていた自分が本当に恥ずかしくなりました。

のちに新宿のスポーツクラブでアルバイトをしたときに、このときの鉄砲隊長さんの後輩に当たる方がお客さんで来られて、話が盛り上がったことを覚えています。

こんな感じで、私の大学1年生はすぎていきました。

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