高校時代の部活動は1日に長時間の練習をしていたので、引退後はその分の時間を作ることができました。通常は受験勉強に費やすのですけど、私自身は部活ではできなかったことを試してみたかったこともあり、よく受験対策授業をサボっては、武道館の階段下にあった部室(実は倉庫)に向かいました。ここにはサンドバッグが置いてあったからです。
以前も書いた通り、空手道部には道場がありません。武道館は1階が柔道場、2階が剣道場で、倉庫が空手部の部室、というひどい扱いでした。毎年全国大会に行くのは空手道部だけなのに、ね。
一度、早朝授業をサボって部室に向かうところを知らない先生に見つかって説教されたことがありましたが、その先生の制止を振り切って部室に向かったこともあります。当時の私は世間知らずで生意気なクソガキでした。そんなクソガキが当時憧れたのが、タイガーマスク、ベニー・ユキーデ、猪狩元秀先生です。
といっても、実際に動いている姿を見ることができるのは、地上波TVで放送されていた新日本プロレスのタイガーマスクだけ。それ以外の方々は、スポーツライフ社が出していた格闘技系の書籍で知ったのでした。
もちろん、新日本プロレスで見られるタイガーの技は、いわゆる格闘技の真剣勝負でないことは分かっていました。それでも私は当時、このタイガーマスクが本当に闘っても最強だろうと感じていたので、梶原一騎さんの「プロレス スーパースター列伝」を併せて読みながらタイガーマスクの練習法などを真似していました。休み時間に、他の3年生が受験対策をやっているときに、高鉄棒で片手懸垂を繰り返したり、部室や自宅では頸ブリッジばかりやっていたり。今は出来なくなってしまいましたが、頸ブリッジは立った状態から手を突かずに頭を後ろに下ろしたり立ち上がったりが出来ていましたし、自宅の練習では腹の上に体重が70kgの弟と30kgくらいの妹を載せて練習していましたよ。私自身の当時の体重は58kgくらいと、全然増えていかずにタイガーマスクさんにはとても追いつけませんでしたけど。
併せて、スポーツライフ社の猪狩元秀さん、ベニー・ユキーデさんの本を買って何度も読み直し、モチベーションを高めていました。「熱い炎・最強への挑戦 (1982年)」に紹介されていたエピソードで、猪狩元秀さんが現地でムエタイチャンピオンを破った話は何度読んでも感動したのを覚えています。
猪狩先生はKO率90%を超えるような強いキックボクサーでしたけど、当時ビデオ機器を持っていませんでしたし、この時代のキックボクシングは地上波で放送されるようなこともありません(鹿児島だったからなおさらかもしれませんが)。ですので、写真と文章から頭の中の想像だけで猪狩先生の動きや戦い方を再現するしかありませんでした。この読み物は、繰り返し読んだ書籍としては10本の指に入ると思います。可能なら、先生の技術書も見てみたかったです。
ベニー・ユキーデさんの本も最初は自伝の「格闘技に生きる―新星マーシャル・アーツー勝利への羽ばたき (1982年)」から入り、そのあと発売されたこの技術書「実戦フルコンタクトカラテ―ベニー・ユキーデのマーシャルアーツ 闘いのテクニックとトレーニング (1982年)」を何度も読みました。そういえば、受験対策授業の合間にこの本を開いていろいろ書き込みをしていたら、友人が来て「めずらしく勉強していると思ったら、何やってんだ?」とあきれられたことがありました。
右ページの演者は、ベニー・ユキーデさんと猪狩元秀先生ですね。
この本は本当に有益でした。当時実際に彼が動いている姿を見たことはなかったのですけど、この書籍で「ジャンプ・スピニング・バックキック(ジャンピング・スピンキックとも)」として紹介されている技は、ターゲット部位は異なりますが、タイガーマスクさんの「ローリング・ソバット」という技と基本的に同じです。ですので、タイガーマスクさんのプロレスでの動きを参考に、ベニー・ユキーデの技を脳内再現して、自分で試す、ということもしばしばでした。今はYouTubeとかで普通に見られるようになっていて、今の若い人は恵まれているなあ、と思います。実際、当時の私では、現代の同じくらい練習している同年代の人には勝てないでしょうね。
学校の近くのバス停にコンクリート塀があったので、バスを待つ間、一心不乱にジャンプ・スピニング・バックキックを放ち続けたことを覚えています。壊すとまずいので、もちろん足裏を軽く当てるだけでしたが…よく通報されなかったな。
あと、「闘魂燃え尽きるまで (1981年)」も何度も読んだ書籍でした。渡辺先生の自伝も本当に血湧き肉躍る感じだったのですが、後ろのほうに少しだけ、キックボクシングの技術解説コーナーがありました。当時、キックボクシングの技術書はなかったと思うので、これは本当に貴重な本でした。
例えばこれはハイキックの解説。当時私は蹴り技が得意でしたが、私が空手道部で覚えた蹴りとはずいぶん違うな、と感じました。まず、空手では基本的に踵は浮かさずに蹴ります。
そして、高校時代に私が「技術的な」面で最も大きな影響を受けた本があります。これは外せません。
「実戦!芦原カラテ―ケンカ十段のスーパーテクニック」です。この本を書店で見つけたときには本当に感動しました。当時は、マンガの「空手バカ一代」も読んでいて、この作品の後半部分の主役が芦原先生だったこともあり、お目にかかったこともないのに妙に親近感がありました。自身でも空手道を練習していたことから、空手バカ一代のエピソードは創作や誇大表現が多いことは感じていましたけど、それでも芦原先生のエピソードは魅力的でした。
しかし、マンガのヒーローとしての側面はさておき、この書籍の中身がすごかった。
この回し蹴りの解説ですね。実際には上半身は動かず脚だけが走るわけではないので、ここでは脚の解説部分に注目する必要があります。当時の空手書籍をたくさん持っているのですけど、フルコンタクト系の技術解説書であっても、インパクトゾーンなんて解説した本はありませんでした。
私自身は、ブルース・リーが映画で使っていた「三日月蹴り」に近い回し蹴りを好んで使っていましたが、この芦原先生の解説する回し蹴りと、沖縄の大学に進まれたOBの先輩の蹴り方がすごく似ていて、参考になりました。
これはSTREET FIGHTの解説の一部分ですが、「いきなりハイキック蹴ってくるやつなんか、いるのか? 東京のヤンキーはそうなのか?」という感じで、リアルな印象は受けませんでした。しかし、この部分からだけでも分かる「ポジショニング」は非常に有益な情報です。
高校時代にたくさん書き込みをした初版本は友人に譲ってしまって手もとになく、この写真の書籍はあとで追加購入したものです。今となっては、自分で書き込みしていた内容なんかも確認したい気がするので、手もとに残しておけば良かったな、とか反省しています。私、あとから追加購入した上で、中学〜高校で入手した初版本を友人に譲ったというケースが多いんですよ。
この書籍で最も参考になったのが「ストッピング」ですね。いろいろな武道の方と技術交換や練習試合をするときに、ここで得たストッピングの技術が本当に役立ちました。
このシリーズは後に続編が2冊出版されましたが、すべて所有しています。ビデオ版も所有していますが、VHSデッキを復活させないと見られない状況なのが残念…。
芦原カラテは当時でも本当に高度で、合理的な技術体系を構築されていました。芦原英幸先生が若くして亡くなられた際には本当に残念なことです。
このような感じで、空手道部の現役で練習していたころにはゆっくり取り組むことができなかった、いろいろな人や種目、考え方を少しずつですが吸収していくようにしました。さらに、技術習得だけではなく、基礎体力の向上のために、雑誌の通信販売でT製作所の55kgバーベルセットとベンチを購入して、自宅でのトレーニングに励んでいましたね。当時教材として使用していたのは「新ボディビル入門 (スポーツ新書 174)」という書籍でした。
さて、好きなことをやるなかで、進学など将来のことも考えて行かなければなりません。第一希望は日本大学。その日本大学が、3年生の一学期の段階ではD判定だったのです。
特に、受験のために勉強時間を取ったりはしていなかった反面、受験対策の授業への集中力を高める努力をしていました。すると、2学期にはA判定になり、受験が現実的になってきました。
第1希望は文理学部体育学科です。中学生までは5段階評価の2でしたけど、この時期までに5まで上げていました。体育が苦手だった少年は、体育そのものが好きではなくても、体育の専門家を狙えるところまで来ていたのです。将来も武道や運動に関連する仕事に進むのだろうと漠然と考え始めていました。専門競技はもちろん、「空手道」での受験を選択しました。
第2希望は中国文学科。高校時代、3年間は空手道に明け暮れましたが、その源流が中国武術にあると聞き、現地の文献を多数読んでみたいと思ったからです。そんな理由で、あまり将来につながる意識は持っていなかったと記憶します。
いざ、1984年の2月に受験のために初めて東京を訪れました。このときの東京地方は大雪だったこと、体育学科受験時に近くにいた女子と仲良くなって雪の中一緒に帰ったことを印象深く覚えています。
中国文学科は100%受かった、という手応えはありました。しかしながら、体育学科は専門科目の空手道は間違いなく大丈夫だったものの、学科試験と体力テストの出来が少々心許なく、結果を待つまで落ち着かない毎日を過ごしたことを思い出します。
最終的には両方とも合格通知が来ました! 私としては体育学科に進みたかったのだと思います。しかし、学費が中国文学科の倍。中国文学科の1年目は三島校舎なので、下宿代も安く付きます。この状態で体育学科に行きたいとはかなり言いづらい状況でした。
それに、母が、私が体育のほうでやっていけることなど、未だに信じられない、無理だと信じていたことがあります。まあ、中学まで全く運動もせず、運動に苦労しているところを小さなころから見ているので、無理もないかもしれません。高校3年生のときには全国大会も2年連続で進出できるような選手に育っていたのに。
結局私は自分で中国文学科を選びました。いまでも後悔していることのひとつですが、今思えば、奨学金を使うなど、いろいろな手があったはずです。当時はそういうことも知らなかったし、調べようともしなかった私自身に責任があります。どんな言い訳を並べてもあの瞬間は帰っては来ないのです。