高校時代の私は学業をおろそかにしていて、一番苦手な数学はいつも赤点でした。これが原因で居残り学習をさせられそうになるわけですが、先生がよそ見をしている間に教室を抜け出すので、「あれ、中原はどうした?」ということになります。「ナカハラ〜!」と後ろから追いかけられるのを振り切って部活へ一直線。
私が所属していた鹿児島玉龍高等学校(今では中高一貫校)は福昌寺というお寺の跡地に建てられたものですが、空手道部はそのすぐ裏の、福昌寺の遺された部分の広場を青空道場として使っていました。専用の道場が取り壊されて存在しないためです。
この広場、実は校舎3階の渡り廊下から丸見えなので、当時の担任だった数学の先生、通称「田吾作」がこの広場に向かって「中原はおらんか〜」と叫んでいたのを思い出します。私は福昌寺の塀の裏に隠れ、先輩方が「いや〜。今日は休んでいるみたいですね〜」と回答してくださっていたのですけれど、田吾作が去って行った後に、私はこっそり練習に復帰するのです。
もちろん、そんな日の翌日は、数学の授業の間「正座」させられることになってしまいますが。
この担任となった田吾作もまれに見る嫌な先生で、クラスでは「タゴ」と省略されて呼ばれていたのを思い出します。逆に考えれば、数学の先生が担任だったからこそ、無事に2年生に進級できたのかも。感謝しなければいけないですね。2年も、別の数学の先生が担任だったのには閉口しましたが、このクラスは女子のほうが男子より多くて、明るい雰囲気だったのが救いでした。
その進級後の新3年生は2人しかいません。自動的に、私たち新2年生3人を合わせて5人が、大会に向けての新レギュラーとなります。
鹿児島には全国大会優勝校もありましたし、島嶼部もあるので強豪揃いでした。3年2名、2年3名で全国大会に進出することはそう容易なことではありません。伝統的に団体形が得意な高校、ということもあり、当時の館長先生が県大会用に「龍拳」、九州大会用に「虎拳」という創作形を私たち空手道部にプレゼントしてくださったことを覚えています。剛柔流のクルルンファという形と、スーパーリンペイという高級形の良いところを再編成されたものだった思います。当時は、地方大会レベルでは創作形での参加も許されていた、ということでしょう。というよりまだルールがそこまでハッキリしていなかったのかな。その翌年、創作形での参加は禁止されました。
虎拳。ここは三戦立ちのはずですが、前に体重が乗ったようになっていて、今見ると違和感がある写真です。地面が前向きに傾いている影響もあるかもしれませんが、まだまだですね。
幸い、鹿児島県大会では団体形で2位となり、九州大会と全国大会への出場が決定しました。
銀メダル(?)をしているので、おそらくは鹿児島県大会のときの写真ではないかと思います。久々に見るとガキですね。でも、身長は169cm、体重は54kgくらいにはなっていたと思います。160cm46kgだった入学時と比べると成長しているみたいです。
このときの私は黒帯を締めていますが、本当は茶帯でした。3年生と色を揃えるために特別に締めていたもので、これは全国大会が終わったあとに、ある先輩から何度も「返上しろ」と迫られた経緯があるものです。私たちはもちろんそのつもりでしたが、師範の判断で3年生までそのまま黒帯を締めることになりました。
県大会を突破したことで、初めて県外の遠征となった、長崎での九州大会。1982年7月23日。永遠に忘れられない経験となります。
私たちはこの大会で3位となることができました。興奮冷めやらぬまま、ホテルに戻るためにタクシーに乗車してすぐ、大粒の強い雨が降り始めました。実は、先ほど紹介した1982年7月23日というのは、長崎の方なら忘れられない日だと思いますが、長崎大洪水の1日目だったのです。
ホテルに着いたあと、私たちは市街地に祝勝会に出かけることにしました。しかし、フロントでホテルスタッフの方に制止されました。市街地は洪水になっているというのです。ホテルが高台のほうにあったため、私たちは全く状況に気づいていませんでした。
先に祝勝会に出かけていた優勝チームの選手に聞いたのですが、喫茶店の窓の外の水位がどんどん上がっていって、生きた心地がしなかったとのことです。
この日のホテルでの夕食は出たはずですが、その後停電した記憶があります。風雨が続く中、暗いホテルの一室で一晩を過ごしました。ラジオからは、被害が拡大しているというニュースが次々と入っているのですが、この段階ではまだそれほど深刻には捉えていなかったかもしれません。
一夜明けて24日朝、ホテル側に食事の備蓄がなく、食事が出ないことを知りました。雨は上がっていたので私たちは市街地まで徒歩で下り、買い出しに出たのですが、その惨状に絶句するしかありませんでした。
Google検索で出て来る、まさしくこの光景を目撃したのです。バスや車があちこちに流され、横転し、川に突っ込んでいました。繁華街の地下にあるお店も、入口から水没。中は大丈夫なのだろうかと心配になりました。
途中、ガレキでいっぱいになったスーパーのようなお店を見つけました。ここでは、販売が難しくなった商品などを外に出していましたが、缶詰など影響を受けていない食材をいくらか買って、ホテルの部屋に戻りました。
その後、夕方くらいでしょうか。ボランティアの方々がホテルにやってきて、炊き出しをしてくださいました。かなり空腹の状態になっていたので、大変にありがたかったのを覚えています。このとき、東京の目黒高校の空手道部員の方々が九州大会を視察に来られていたことを知りました。私たちは「全国大会出場」が目標ですが、彼らは「全国大会優勝」が目標の高校です。学校の後援体制の充実度や、選手の意識の高さを感じつつも、同じ水害の現場に居合わせ、同じように心細さを内心感じていたりしたのかな、と懐かしく思い出されます。
このころ、部員の家族からは学校に問合せが相次いでいたみたいですが、当時は携帯電話もスマフォもない状況でした。はっきりとは覚えていないのですが、学校には私たちの無事を伝えることはできたようです。
道路があちこちで分断され、またその日は南方の熊本でも大きな被害が発生していたことで、もう1泊することになりました。この晩の写真を見てみると、私たちも少しリラックスしているように見えますが、この時点ではいつ鹿児島に帰ることができるのかは分かっていなかったと思います。
翌日、鉄道は無理そうだ、ということになりました。その代わり飛行機は大丈夫であることが分かり、急遽空路で鹿児島に戻ることになりました。空港までの道は至る所で崖が崩れており、自然の猛威を改めて感じた次第です。
この記事の執筆時で、この水害より37年。犠牲になられた方やご遺族の方の平安をお祈りいたします。
この年の全国高校空手道選手権大会は、インターハイと同じ鹿児島で開催されました。私たちの地元です。当時の空手道競技はまだインターハイに加盟せず独立していたのですが、なにもこのときだけ合わせなくても…と思ったのは記憶しています。私たちの高校は修学旅行がなかったこともあって、できれば外に出てみたかったのでしょう。
全国大会でどの形を演じたのかは覚えていませんが、創作形は許可されていないと思うので、セーパイとかかなあ? セーパイは3年のときだったような気がしますが、少なくとも1回戦か2回戦で敗退したはずです。長崎大水害と九州大会のイメージが強く、地元開催で県大会とあまり変わらない態度で臨んだためか、記憶がほとんどありません。