空手道部に入部

念願の高校に進学して初日。教室にいると、中学校で一緒だった同級生のひとりが蒼い顔をしていました。どうしたのか訪ねると、「入口で空手部に勧誘された。放課後に絶対に来い、と言われた…」とかなりおびえている様子。やっぱり友人が体格も顔つきも、かなり精悍な感じだったこともあるのかな? 対して、私はまだ身長160cm、体重46kgくらいしかなかったし、どんなスポーツの部活動からも声がかかっていませんでした。

私は友人に、「一緒に行くよ」と言いました。どのみち私は、初日から空手部に見学に行く予定でした。何しろ、1年半も待った空手を直接習う機会ですから。

放課後、空手部に見学に行くと、空手部は体育館の舞台の上で形の練習をしていました。このときは3年生の先輩がいろいろと答えてくれましたが、当然ながら私より、スカウトした友人のほうにプッシュしていました。そんな中、私があっさり「入部します」と言ったものだから、先輩方の反応も若干微妙だった記憶があります。同時に友人の表情は明るい。2名見学して1名が入部した、ということで、彼はフェードアウトしやすくなりましたから。

しかし、空手部、正式には空手道部ですが、なぜ体育館の舞台の上で稽古していたのでしょう? 実は、前年に空手道場は取り壊され、なくなっていたのです。それから、空手道部は青空道場で練習することになったそうですが、私が入部した日は天気が悪かったので、体育館の舞台を使わせてもらっていたとのこと。

それにしても、私の所属していた高校はここまでに2年連続で団体形の全国大会に出場していたような空手の強豪校です。それがなぜ、道場が取り壊されたままになっているのでしょう?

あとから聞いたことですが、OBの一人が他の部ともめてしまったことがあったそうです。ここでは詳細を書くのは止めておきます。そのOBの先輩も最後は許され、無事に進学できたわけですから。学校側はそれが原因とは言いませんでしたが、その後も道場は再建されませんでしたので、学校側には明確に、空手道部を圧迫する意図があったんだろうなあ、と私は思っています。

一度、私は空手道部の一員として、なんらかの用事で校長室を訪ねたことがあります。このときの校長の、私に対する嫌悪の目、態度は忘れられません。それでも、私たち空手道部があんなに強かったのは、そういう逆風の中で血の出るような(出ていたけど)努力をしていたからに他なりません。

師範の飛び2段蹴り

空手道部の見学のときは、生徒だけで練習をしていましたが、入部してからほどなくして師範にお目にかかりました。U師範はもともとは小林流の6段位を持っていたが、別の師匠に弟子入りして剛柔流を極めた方でした。失礼かと、段位などは伺っていないのですが、「小林流でも6段までは進んだから」といういい方をされていたことがあったので、剛柔流ではそれ以上の段位を取得されていたはずです。その上にはさらにU師範の師匠、S館長がいらっしゃるのですが、そのS館長が「君たちの師匠、U師範は実戦では最強だろう」とおっしゃっていたことがあります。

所属する団体の演武会の新聞切り抜き。この中に私もいる…はず。

こうやって、1981年4月、宿願の空手道部入部を果たし、剛柔流空手道を習い始めた私でしたが、最初からつまずいてばかりでした。極端に運動神経が鈍かった私は、ほかの新入部員が普通にこなせる動きを、私は何回教えてもらっても覚えないのです。3年生のみなさんのイライラが伝わってくるのが分かります。私の良かったところを褒めるとするならば、それを放置しなかったことでしょう。先輩方を困らせないよう、自宅に帰ってからそれができるようになるまで何回も練習し、翌日にはできるようになっていました。

そのほか、1年生の通過儀礼として、四股立ち20分を耐える、というものがあります。これを竹刀を持って監視する役割をするのが、1学年上の2年生。

少しでも腰が上がると2年生によって竹刀で叩かれます。1年生の根性を鍛えるというのもありますが、今思えば、2年生が責任を持って下級生を導けるようにする目的もあったのでしょうね。後ほど述べることもあろうかと思いますが、私たちの1年上の先輩にそんな思いやりがあったとは到底思えませんでしたし、その後の私たちも思いやりを勘違いして、下級生を適切に成長させることができませんでした。難しいところです。

この四股立ち20分の儀式では、完遂直前に私が崩れ、地面に手を突いてしまいました。立ちたい意識はあるんですけど、体が全くいうことをきかないんです。私は当然、竹刀でボコボコにされましたが、もっと辛かったのは、この四股立ちが失敗とみなされ、連帯責任で後日やり直しになってしまったことです。本当に同級生たちには悪いことをしたと思っています。この四股立ちやり直しの件は、長年の空手道部の歴史で初めての失態だと散々言われました。

というように、私はずっとこういうことを繰り返していたので、先輩方は「あいつはすぐにやめるだろう」と思っていたそうです。でも、2回目の四股立ちをクリアしたころから、私も自信がついていき、練習にもなんとか付いていけるようになりました。運動が苦手な子供でも、やれば何とかなるものですね。

私は高校時代の組手についてはほとんど記憶がありません。あまり勝った記憶がないので、黒歴史として無意識に封じているのかもしれませんが(笑)、よく覚えているのは空手道部に所属して間もない、1年生のころのいくつかの組手ですね。

一つ目は、初めての部員以外との組手です。

ある日、市内の高校の生徒達が集まる練習試合がありました。1人2試合ずつ続けて行うのですが、私の順番を確認していると、その年に日本一になったM選手と当たりそうな雰囲気になってきて、非常に緊張したのを覚えています。そのM選手の堂々とした組手を見たとき、「これはやられる…」と悲壮な気持ちになったのですが、私が数え間違いをしていたのか、なんらかの事情でずれたのか、私の前でM選手の練習試合は終わりました。

少しホッとしたものの、次は私も試合場に上がらねばなりません。私の相手になったのは同じ1年生のようで、体格も同程度だったんじゃないかな、と思います。私のほうは、気持ちがM選手のほうに向かっていたおかげで気合いは入っていたようでした。試合と同時に飛び込んできた相手に右の前蹴りを放ったところ、これがまともに相手の腹部に入ってしまいました。この感触は今でも覚えています。

申し訳ないことに、相手の選手はしばらく試合場をのたうち回り、少しあとに試合継続不能と判断されました。このころは私も、高校組手競技が「寸止めルール」であることを認知していたので、相当絞られると覚悟しました。しかし、なぜか「前蹴りくらいは耐えろ」との裁定が下され、次の選手が上がってきました。

この選手もおそらくは同学年で、身長は同じくらいと思われるもの横幅があったので、普通に闘えば押されると思いました。私はとにかく前に出て行きましたが、相手はひとつ前の試合結果を目の当たりにして大変おびえていて、また、私からは大変小さく見えていました。

この対外デビュー2連戦が3年間の試合記憶の中で印象が強いものですが、この試合が記憶に残ることになったのにはもう一つ理由があると思います。

これらの練習試合が終わって制服に着替えたあと、私は3年生のM主将にトイレの裏に呼び出されました。M先輩は、「おまえ、ケンカのつもりでかかってこい」というのです。怖くて逆らえないので、M先輩を殴りに行きましたが、思いきり殴っている突きがM先輩のボディに当たっているのに全然効かないではありませんか。ときどき飛んでくる先輩の軽い攻撃でダメージを受けるというのに。練習試合では無傷でしたが、そのあとのこの交戦で、身も心も打ちのめされたものでした。

おそらくは練習試合で調子に乗りすぎている私が増長しないようにやってくれたのだと思います。実は、私以外の新入部員もM先輩に同じことをやられていたのですが、殴ったり反撃をしてきたのは私だけだったそうです。後に、この先輩がこのことで私を褒めていた、と別の先輩から聞きました。「きっとあいつは強くなるだろう」と。

ところがところが…。これは笑い話ですけど、試合が強くなったのは私のほうではなく、反撃をしなかった新入部員たちのほうでした(笑)。現実は漫画のストーリーのようにはうまくいかないものです。

次に記憶している試合が公式戦の組手で、こちらは練習試合とはまるっきり逆の記憶です。

公式戦は練習試合とはわけが違います。完全に試合場の雰囲気に呑まれていました。初めての試合の相手は、私の高校の先輩達より体格が大きく、威圧感がありました。同じ白帯でしたが最初から押され、私の攻撃は明らかに苦し紛れでした。そのまま押され続けて、1本を取られてあっという間に負けてしまったのを覚えています。

「普段の練習であんな中途半端な蹴りなんかやってるか? 何ビビってんだ」と怒られたのは覚えていますが、なぜか分からないけどあまり悔しくなかったのですよ。「あんなデカイやつ、勝てるわけないじゃないか」くらいな。

先の試合で、相手が「小さく見えた」といいましたが、この試合では「大きく見えていた」のかもしれません。本来なら、こういう所で反省し、「なぜ負けたか」を分析し、「どうやったら勝てるか」を研究すべきでした。これができないから私は強くなれなかったんじゃないかな…と思っています。

ブルース・リーみたいになりたいはずなのに、考え方が矛盾していましたね。

とにかく私は形でも組手でも、個人戦はまるっきりダメでした。個人形では1年生のときに、市内大会の新人戦かなにかで砕破(サイファ)を演じて4位になったのが最高ではなかったかと思います。基本的にスペックが低いですから。

それに対して、3年生が引退したあとの団体組手では、1年生のときの別の市内大会で優勝しているはず。この大会の決勝では、私も相手チームの2年生キャプテンと引き分けたことで少し自信をつけたのですが、この人と仲が良かった先輩にお話を聞いたところでは、どうもひどい腰痛を押して出場されていたとのこと。決して私が強かったわけではなかったんですね。

あと、1年生の何かの大会で、突然高熱が出て、全身に発疹が出てしまい、バイクで来ていたOBの先輩に病院に連れて行っていただいた記憶があります。診断は風疹でした。エントリーしていた大会を欠場したのはこのときが最初で最後でした。

当時は、部活の練習が激しい、先輩は厳しい、という印象しかなかったのですが、こうやって思い返してみると多くの先輩方や、そして師範の愛情を受けて成長していったんだと思います。

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