詠春拳を習い始めた頃、先生と先輩に「上半身に関する要訣で、剛柔流空手道で習ったものはあるか?」と聞かれたことがありました。
そのときに一番最初に思いついたのがこの「チンクチ」という言葉。
私を教えてくださった剛柔流の師範が三戦のときに「チンクチに力を入れよ」という表現をたびたびされていたからです。先生はチンクチのことを「脇の筋肉だ」とおっしゃっていたし、実際に三戦の最中に師範が学生の大円筋〜広背筋の膨らんだ辺りに突きを入れていたりしたこともあって、そのイメージで「脇の筋肉に力を入れなさい、といういうことでした」と詠春拳の先生と先輩に伝えました。すると、そのときの反応が「へぇ〜。そうなんだ。外見は似ているけど、やっぱり違うんだね」というものでした。
これについては、私が詠春拳側にウソを伝えてしまったかもしれません。それはもちろん意識的なものではなく、私の剛柔流空手道の修行が浅かった関係で「チンクチに力を入れよ」という言葉の解釈を誤ってしまっていたことによるものでしょう。
剛柔流師範の「力を入れる」感覚と私の「力む」感覚はおそらく全く別物で、同じ言葉で表現しても「両者で同じ身体操作を再現できるわけではない」のですね。私や空手部の先輩がマキワラを突くと「乾いた音」がするのに対し、師範が突くと「ズシン」と建物全体に響く感じでした。これが、チンクチの効いた突きと、そうでない突きの差につながっているものと思われます。
さて、当時剛柔流の師範が指さした「チンクチの位置」について振り返ってみると、そこは前鋸筋という筋肉の起始部(第1〜第9肋骨の外側)の辺りです。前鋸筋というと、ブルース・リーの映画で見せる「それ」がものすごく印象的だったので、私自身もこの筋肉をつける方法というのはフィットネス・クラブのインストラクター/トレーナーをしていたときにずいぶん勉強した記憶があります。
脇に現れる前鋸筋の姿は確かに印象的ですが、実はこの前鋸筋は肩甲骨の内側を通って肩甲骨内側縁前方に付着しています。つまり、肋骨の外側に向けて肩甲骨を動かす筋肉だといえます。
この筋肉が収縮して前方にずれると、反面、僧帽筋の中央部や菱形筋という筋肉が引っ張られ、伸びる感じになるのが分かります。
ここからは中級者レベルの私の解釈になりますが、剛柔流の先生は前鋸筋の収縮するイメージを主に術を伝え、詠春拳の場合は、僧帽筋や菱形筋が伸ばされる感覚を主に肘を操作する感覚を伝えていたのだと思います。これらを意識すると、剛柔流空手道のチンクチと詠春拳で言われる力の連動は、私のなかではかなりの部分でリンクしました。
例えば、三戦の構えは詠春拳の攤手を出していくときの感覚にも似ているし、三戦の最後に行う、両手を手前に巻き込んだ後に指先を斜め前に突き刺していく動作なども詠春拳の攔手の感覚に似たところがあります。
このように考えると、剛柔流の先生がおっしゃっていたチンクチとは背中から脇にかけての部位を指すのではないかと私は思います。もちろん、多くの方々がおっしゃっているように前鋸筋単独で働かせるのではなく、腕を肩甲骨や体幹に固定する目的で大円筋や広背筋も使われるでしょうが、個人的には詠春拳のほうが広背筋の感覚は希薄な感じがします。
詠春拳の単黐手に似た練習法に、剛柔流の「カキエ」があります。高校生の当時はあまり意味が分からず、単なる力比べ的なものだと思っていました。なので、当時「アポロエクササイザー」と呼ばれた器具で徹底的に鍛えた筋力で苦手な先輩をカキエの練習で潰したりしていました。記憶に残る感覚では肩甲骨を閉じて三角筋の力で押し切っていたはずです。今ならおそらく、先生がおっしゃっていたチンクチの一角を利用してカキエを行えるのではないか、という気がします。もちろん、専門家から見ると相当ぎこちないでしょうが。
チンクチと詠春拳の力が全く同じかというと、力の産み方が肩甲骨、肩関節周りの操作に限った話ではないのはもちろんのこと、剛柔流と詠春拳ではかなり要訣も動作も異なります。先日書いた「ガマク」についても私の中では差を感じますし、「順腰・逆腰」で書いたように突きの際に腰を切る動作などは詠春拳の直拳にはなく、今それを詠春拳の形でやろうと思ってもできませんでした。ただ、今でも空手の正拳や縦拳を突くときには腰を切る打ち方に戻るんですよね。全然練習していないのに。不思議。
詠春拳では、黐手の練習でかなり「持続的な力」を使いますが、剛柔流については、私自身の経験に限れば全空連での試合の練習が主であったため、持続的な力というより瞬発的な力について考えることが多かったと思います。こんな事情で、詠春拳の先生が見せた「持続的で相手を圧倒する力」について、剛柔流に存在すると思われるものと比較することができません。もうちょっとしっかり「カキエ」について習っておけばよかったと、今さらながら考えます。